2010年3月10日(水) キリスト教は西洋の神様では? 愛知県 K・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのK・Kさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「いつもインターネットで放送を聴いています。
ところで、今までの放送の中で『キリスト教の教えはよく分かるのですが、キリスト教の神様は、西洋の神様であって、日本にいる私たちにとっては関係ないのではないですか?』というような趣旨の質問があったように思うのですが、もし私の記憶違いで、今までにそのような放送・質問がないのであれば番組で取り扱ってください」

K・Kさん、お便りありがとうございました。かれこれ10年近くこの番組を担当させていただいていますので、ひょっとしたら同じような趣旨のご質問を以前、取り上げたことがあったかもしれません。
「ふくいんのなみ」ホームページでは2004年以降のデータについては完全に保存してあるのですが、それ以前のものはまだ不完全にしか整備しておりません。それで、検索をしても見つからなかったのかもしれません。
いずれにしても、もう一度新たにご質問を取り上げてみることにいたします。

さて、「キリスト教の神様は西洋の神様であって、日本にいる私たちにとっては関係ないのでは」というご意見はよく耳にいたします。
クリスチャンにとって、このような質問はとても挑戦的な質問のようの響いてしまい、ついつい感情的な応答になってしまいがちなように思います。
もちろん、カチンときた思いを表に出さないように、あくまでも冷静に議論を進めようとして、客観的な事実を並べて反論を試みようとします。しかし、全体としてどこか議論がかみ合っていないという結果におわってしまいがちです。

たとえば、「キリスト教の神様は西洋の神様だ」という点を取り上げて、反駁することがあるかもしれません。なるほど、キリスト教の起源はオリエントの世界にあるわけですから、それを「西洋の神様だ」とするのは、認識不足もはなはだしい、と反論することができるかもしれません。
しかし、その反論に対して、起源はオリエントの世界にあるかもしれないが、日本に入ってきたキリスト教は明らかに西洋の文化を経由してきているので、西洋化された神だ、という反論が返ってくるかもしれません。
こうなってくると、議論はますます熱くなるばかりで、いったい何のための議論なのかわからなくなってしまいます。

あるいは、こんな論理で反論を試みるというクリスチャンもいるかもしれません。

「もし、キリスト教が西洋の宗教で日本人とは関係ないというのなら、仏教だって日本人が生み出したものではないのだから、日本人が信じているのはおかしいのではないか。」

鬼の首を取ったような自信に満ちた反論ですが、しかし、質問者がたまたま廃仏毀釈論者であったとすれば、キリスト教はおろか、仏教すらも排斥しようとしてるのですから、その論理は通用しません。

そもそも、「キリスト教の神様は西洋の神様だ。だから日本人には関係ない」という言葉は、いったい何を意味しているのでしょうか。
こういうことを言う人にとってはそもそも「キリスト教の神様は西洋の神様だ」ということが真実であったとしても、そうでないとしても、「日本人には関係ない」という点にこそ言いたいことのすべてがあるのだと思います。
「日本人には関係ない」というのも、正確にいえば、「わたしには関係ない。従って信じたくない」ということなのだと思います。その人が日本人に固有なことだけを取り入れて生きるほど、日本人であることに神経質にこだわっている人だとは思えません。西洋の学問、西洋の習慣、西洋の思想をすべて排斥して生きようとしているほど、純粋に国粋主義の人という人をわたしは見たことがありません。
自分にとって都合がいいものを取り入れ、都合の悪いものは排斥していく、ただそれだけのことだとわたしは考えています。

「キリスト教が西洋の宗教だから」というのは、一見キリスト教を信じない理由のように聞こえるのですが、それはあとからつけた理由にすぎないことの方が多いように思います。
もちろん、根っからの西洋嫌いで、西洋の匂いのするものはことごとく嫌いだという人もいるかもしれません。そういう人は別として、「キリスト教が西洋の宗教だからわたしは信じない」という人の大半は、「キリスト教は自分にとって都合のいいものではないので、キリスト教を信じない」と言っているにすぎないのだとわたしは思います。
ですから、表面上の理由に惑わされて、いくら反論したり説得を試みようとしても、結局のところ議論が空回りに終わってしまうだけなのです。

では、「キリスト教の神様は西洋の神様だ。だから日本人には関係ない」という意見をもっている人に対して、どうアプローチしたらよいのでしょうか。
結局のところ、キリスト教を嫌う本当の理由がどこにあるのか、あるいは、キリスト教を信じることができない本当の理由がどこにあるのか、あまりカッカとならないで、すぐに反論しようとしないで、冷静に受け止める気持ちで聞くより他はないと思います。

「キリスト教の神様は西洋の神様だ。だから日本人には関係ない」というのと、まったく逆の理由でキリスト教を信じるようになったという人もいます。そういう信仰の持ち方は純粋な動機とはいえないかもしれません。しかし、その人の中では、西洋が理想化され、西洋は善であるから、そこに属するキリスト教も善であり、従って日本人として、その善を取り入れることは正しいことである、という論理が成り立っているのでしょう。

しかし、「キリスト教の神様は西洋の神様だ。だから日本人には関係ない」と考える人にとっては、これとはまったく逆の力が働いているのでしょう。
西洋が決して理想ではない体験をしている人にとっては、キリスト教までもが信じるに値しないと思えてくるのだと思います。

キリスト教は確かにその起源は西洋ではありませんが、しかし、わたしたち日本人が触れるキリスト教は西洋文化と結びつき、西洋を経由してのキリスト教です。そのキリスト教を信じる西洋人に失望し、そのキリスト教と共に育ってきた西洋文化に不信感を抱いているのであるとすれば、キリスト教に対する評価も落ちてしまうのは避けることができません。

とにかく、自己弁明に走る気持ちを抑えて、どこにキリスト教嫌いの理由があるのか、そのことをよく耳を傾けて聞くところから、第一歩が始まるのだと思います。その手続きを踏まないで、表面的なことにいちいち反論を試みようとするところに、議論のかみ合わない大きな理由があるのだと思います。