2010年3月3日(水) 高齢化の時代を迎えて 東京都 ハンドルネーム・心配な娘さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいの心配な娘さんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しみに聴かせていただいています。きょうはわたしの心配に何か良いアドバイスで応えていただければと思いお便りしました。
今の時代、社会全体が高齢化して、認知症の方々が増加しているようです。わたしの母もグループホームにいますが、認知症であるとの医師の診断がされました。娘の名前もわからないというような重症ではありませんが、心配です。
福音の理解も十分にはできないので、このような家族を抱えたクリスチャンは、祈りながら主にゆだねればよいのでしょうか。何かよいアドバイスをお願いします。」
心配な娘さん、お便りありがとうございました。こんなにも急速に進む高齢化社会を目の当たりにすると、この先どうなってしまうのだろうと心配な思いを抱いている方は大勢いらっしゃるのではないでしょうか。他人事と思っていたことが、現実に自分の家族に起こるとなると、うろたえてしまうのも無理はありません。頭の中ではどんなに事態を想定して、心の準備をしていたとしても、はやり想定と現実とでは大きな違いです。
さて、短いお便りでしたので、具体的な事情についてはよくわかりませんでした。ご相談内容が具体的であればあるほど、的確なアドバイスもしやすいものですが、おそらく認知症についての専門的なアドバイスを求めていらっしゃるのではないとお見受けしました。実際、そのようなご質問を受けたとしても、わたしにはお答えできるとは思えません。ただわたしの家にも年寄りがおりますので、日々衰えを目にするにつけ思う心配は、共通のものがあると思いました。
認知症の家族と共にどう暮らしていくのか、神を信じるクリスチャンとして、そのことをどう受けとめていけばよいのか、そういう信仰的なアドバイスが求められていると思い、そのことに集中してご一緒に考えていきたいと思います。
まず、クリスチャンであれ、そうでない人であれ、老いの問題を避けて通ることはできません。聖書の中に登場するどんな信仰深い人も、長く生きればそれなりに衰えていきます。認知症になった人が聖書にいたかどうかはわかりませんが、少なくとも聖書の神様を信じたからといって、老いることから抜け出せるわけではありません。
新約聖書に「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(2コリント4:16)という言葉があります。この言葉は明らかにクリスチャンであっても肉体の衰えは避けて通ることができないという認識の上に立った発言です。この場合、「外なる人」に対して言われている「内なる人」というのは、記憶や認識や精神面という意味にとってはなりません。「外なる人」というときに、すでにそこに肉体とそれにまつわる人間としての機能すべてが含まれていると考えるべきでしょう。体力も気力も記憶力も衰えることは避けられないものです。もちろん、それには個人差がありますが、その個人差は信仰のあるなしという個人差ではありません。信仰があれば肉体や精神の衰えはなくなるという変な期待は持つべきではありませんし、また、信仰がないから老いるのが早いという根拠のない偏見は持つべきではありません。
むしろ「外なる人」は必ず衰えるという現実を受け止めることが、物事を考える出発点なのではないかと思います。老いや衰えを受け入れられないとすれば、これは現実とのギャップに相当苦しむ生き方になってしまうと思われます。
ところで、聖書が語る「内なる人」とは何でしょうか。その「内なる人」が何であるのか、具体的な説明は聖書にはありません。肉体とそれにまつわる様々な機能とは区別されたその人ということでしょうか。俗に言う「肉体と霊魂」という区別でもなさそうです。聖書独特の表現としか言いようがありません。
ただ、それが何であれ、問題は、「わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」という表現にあります。この場合の「わたしたちの『内なる人』」というのはクリスチャンの「内なる人」を指して、その「内なる人」が日々新たにされていく現実が述べられているのです。
クリスチャンであってもそうでなくても、誰にでも「外なる人」と「内なる人」が備えられています。そして、「外なる人」はクリスチャンであってもそうでなくても衰えていきます。しかし、聖書はクリスチャンの「内なる人」は日々新たにされていくという希望があることを語っているのです。
イザヤ書の40章31節に「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」という言葉がありますが、その言葉も文字通りの肉体的な意味にとるのは、やはりいき過ぎでしょう。ここでも、比ゆ的な意味で、主を信じる人の「内なる人」が、倦み疲れることのない、よい意味での飛躍を描いているのだと思います。
ところで、心配な娘さんのお母様はすでにクリスチャンなのでしょうか。もしそうでないとすれば、今お話したことは、余計な心配をかえって増やしてしまったかもしれません。ただ誤解のないように言いますが、人は生きている限り、クリスチャンとなるチャンスはいつでもあるということです。年をとり、色々な機能が衰え、特に記憶力や理解力が衰えたからといって、人間でなくなってしまうわけではありません。人間である限り、神の愛の対象であり、救いの対象である事実に変わるところはありません。
問題は認知症が進んで、いろいろなことが分からなくなった時、福音も理解できないと思い込み、私たちが諦めてしまうことではないでしょうか。
確かに知識としてのキリスト教教理の理解はできないかもしれません。主の祈り一つにしても、覚えられないかもしれません。
しかし、信仰というのは、知的に知っているということだけではないはずです。心からより頼む思いもまた重要な信仰の要素です。知的な理解が衰えたときに、より頼む思いも同時になくなってしまうとは思えません。
わたしたちの諦めに加えて、もうひとつの問題は、教会自体の対応の問題です。
今までの教会は、普通の人が普通に信じて洗礼を受けるケースを想定して、洗礼を受けるための教育を準備してきました。もちろん、それはそれで大切なことですから、そのことに手をつける必要はないでしょう。
しかし、20年ほど前にアメリカ障害者法が成立したころから、教会の中でも障害者に対する配慮の問題がさまざまに取り上げられてきました。その中には知的な障害をもった人たちに対する具体的な洗礼のための準備を定める教会もありました。
ただ、残念なことに、日本の教会全体の中でその問題について十分な検討がなされたかというと、そうでもないように感じます。
それから20年がたちますが、日本の教会は認知症の問題なども含めて、高齢化した教会員の家族が抱える問題について、具体的な対応を定めておく時が来ているのではないでしょうか。そうでなければ、心配な娘さんのような心配がますます教会の中に増えてしまうように思います。