2010年2月10日(水) 洗礼を受けることは教会員になることですか? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「私は、求道者の状態が長く続いており、その間FEBC放送やインターネットの放送などにより、長くキリスト教を学びまた礼拝を守ってきました。しかし、今も教会へは行っていません。その理由は、洗礼を受ける決心が固まっていないこともありますが、同時に、洗礼を受けた教会の会員になることに抵抗があるためです。どうして、洗礼を受けることと教会の会員になることが同時に求められるのでしょうか。洗礼だけを受けて、インターネットなどを通じて、礼拝を守ることも可能だと思うのですが、そういうことはできないのでしょうか。」

tadaさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。いつもtadaさんからはたくさんのご質問をいただいているのですが、これだけたくさんのお便りをいただいていても、わたしはtadaさん個人のことやtadaさんの背景について、お便りから知られること以外には、ほとんど何も知らないに等しいくらいです。
今回のご質問も、tadaさんについて何がしかの情報がなければ、ただ一般論としてお答えしただけでは、tadaさんの納得がいく答えにはならないような気がいたしました。

わたし自身が未熟なのだと思うのですが、tadaさんのお便りが問うている意味がなんとなくわかるようで、しかし、ご質問の意味がそもそもよくわからないというのが正直なところです。

お便りを読ませていただいて、最初に二つのことを思い浮かべました。一つは洗礼を受けることを、国籍の取得になぞらえて考えてみたらどうだろうか、ということです。仮にアメリカ国籍をほしいと思っている人のお便りだとします。そうすると、こんな風にお便りを読みかえることができるのではないかと思いました。

「私は、アメリカへのあこがれ状態が長く続いており、その間放送やインターネットなどにより、長くアメリカについて学びまたアメリカという国を愛してきました。しかし、今もアメリカへは行っていません。その理由は、アメリカ国籍を取得する決心が固まっていないこともありますが、同時に、国籍を取得した国の国民になることに抵抗があるためです。どうして、国籍を取得することとその国の国民になることが同時に求められるのでしょうか。国籍だけを得て、インターネットなどを通じて、愛国心を守ることも可能だと思うのですが、そういうことはできないのでしょうか。」

果たしてこの質問には意味があるのでしょうか。一般論からいえば国籍を取得するということはその国の国民になること以外にどんな意味もありません。国籍を取得してその国の国民となるということは、その国の国民が享受することができるすべての権利を取得することであると同時に、その国の国民が果たすべき義務をすべて負うということでもあります。
もしも、権利も義務も放棄して、名ばかりの国籍を持つことができるのだとすれば、そのことにどんな意味があるのかわたしには理解できません。その国の国籍を持っているという栄誉だけがほしいということでしょうか。

国籍を持っていることから生じる権利だけはほしいけれども、義務は果たしたくないと言うのならば、まだ主張がはっきりします。しかし、そんな主張が通用するはずがないことは答えるまでもないことです。

ただし、義務を果たすつもりがないのと、果たしたくても様々な事情で果たせないのとでは、意味がまったく違います。その区別には注意が必要です。

そこでお便りを読んで思った二番目のことは、tadaさんがどんな事情からこの質問をし、何を本当に願っていらっしゃるのかということです。
お便りの中に「洗礼を受けた教会の会員になることに抵抗があるためです」というくだりがありました。

その抵抗感がどういうところから生じる抵抗感なのか、お便りを読んだだけではわかりませんが、仮に、教会員として果たすべき義務を、様々な事情で果たすことができない負い目からくる抵抗感であるとすれば、その気持ちはよくわかります。
教会員として最善を尽くして教会の活動に奉仕し、献金をもって教会の活動を支えたいと思っていても、自分の健康状態や経済状態から十分に果たせない場合、十分に果たせないことが分かっていながら洗礼を受けるとすれば、そのことに抵抗感があるのは当然かもしれません。
しかし、教会であれ国家であれ、最善を尽くしてもできないことを求めてはいないのではないでしょうか。

病気なのに礼拝に這ってでも出てくるように期待している教会があるでしょうか。経済的な事情から献金をささげることができない人から献金を求める教会があるでしょうか。自分のことだけでも精一杯の人に、周りに人たちの世話をみることを期待する教会があるでしょうか。人が集まる場所に恐怖感を感じる人に、必ず礼拝に集まるように命じる教会があるでしょうか。たとえ他の人ができたとしても、その人のやむをえない事情でできないことを求めることはないはずですし、求めてはならないのだと思います。

ほんとうにやむをえない事情で、ラジオやインターネットや、あるいはテープやビデオで礼拝を守っている人はいくらでもいると思いますし、その人たちがみな間違ったクリスチャンだとはいえないでしょう。
そういう心配から洗礼を受けて教会員になることを躊躇し、抵抗感を感じているのだとすれば、そのような心配はご無用なものとしてください。

もっとも教会といえども、地上にある教会は完全に清い人間の集まりではありません。一人ひとりが抱えている弱さがあります。その弱さから、自分の落ち度は棚に上げて無言のうちに誰かを裁いたり批判したりということがないとは言えません。そういう集団のメンバーになりたくないという抵抗感もまた理解できなくもありません。嫌な思いをするくらいなら、行かないほうがましだということでしょう。

これは教会という地上の集団が抱えている永遠の課題です。集まる人に完璧さを求めないからこそ、誰でも教会に来ることができるのですが、しかし、そのために躓きもおきるということです。躓きの原因を地上の教会から完全に取り除くことは残念ながらできません。
できることは、躓きをどう最小限にとどめるか、ということと、集うものがお互いの弱さを忍耐をもって担いあい、赦しあうことぐらいです。

しかし、そういう他人の弱さに対して忍耐することができないために、教会員になりたくないという抵抗感を持っている人もいることでしょう。

他にも抵抗感を感じる理由は様々にあるかもしれません。しかし、教会に限らず、一般論からいってどんな集団でもそのすべての抵抗感をなくすための対処ができるとは思えません。
ただ、tadaさんが抱えている問題の本質がどこにあるのか、そのことを踏まえたうえで、最善を尽くしてくれる教会は見つかるかもしれません。
申し訳ありませんが、今、わたしが想像できる範囲でお答えられることはこれぐらいのことです。