2010年1月13日(水) 一方を救いに他方を滅びに? T・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「主の御名を賛美します。
山下先生ご無沙汰しております。お変わりありませんでしょうか?
今回はテレビのニュースを見ている時に目撃した事ですが、あるアフガニスタンの少女がアメリカ軍の空爆を受け家族をみんな失い、本人も大火傷を負い病院で『ああ!神様!お助け下さい!』と乞い願っている姿がありました。
そこで質問ですが、もしアメリカ軍の兵士がキリスト教を信じていて(その可能性は高いと思われます)その少女がイスラム教を信じていた(その可能性は高いと思われます)場合、(もちろん私がキリスト教を固く信じているから思う事ですが)神様は兵士を救い、少女を地獄に落とすのでしょうか?
私は心情的にそんな事があるとは思えません。
山下先生の見解をお聞かせください。宜しくお願いいたします。」
T・Hさん、お久しぶりのお便りありがとうございました。大変難しい問題ですが、きっと誰もが一度は考えたことのある疑問ではないかと思います。
そして、こう言うことを学問的に研究するのは教義学を専門にする教義学者ではないかと思います。おそらく教義学者に同じ質問をすれば、きっと学者らしい答えが返ってくるはずです。
わたしは教義学者ではないので、と質問から逃げようとするわけではないのですが、正直なところ、わたし自身、自分が納得できるような答えを持っているわけではありません。
そもそも、具体的に誰が救われて、誰が救われないのか、そのことを知っているのは神ご自身をおいて他にはだれもいません。しかし、では、わたしたちは救いに関して何も知りえないのかというと、そうではないはずです。
少なくとも、この世界を罪のままに放置しておけば、確実に永遠の滅びへと向かうということ。そして、神が救いを用意しなければ、誰一人として滅びから逃れることはできないということ。さらに、神の用意した救いを受け容れる者は、確実に滅びから逃れて救いに与るということ、それらのことを聖書から教えられて知っています。どんな教派のクリスチャンであっても、少なくともこの三つの事柄には異論がないはずです。どこかにこれとは違う教えがあるのであれば、そもそもご質問にあるような疑問は出てこないはずです。
もちろん、キリスト教を受け入れていない人にとっては、そういう教え自体がまったく意味のない戯言としか思えないということは、事実としてあるでしょう。それについての反論はひとまず脇へ置いておくことにします。
さて、聖書から知りえた三つの事柄から、さらにどんな結論を引き出してこようとしているのか、そこにわたしたちを困惑させる問題があるように思うのです。
そもそも、聖書がこれらのことを語っているのは、滅び向かう世界への警告のためであり、警告を与えるは、その滅びから逃れて救われるためです。この警告を聞き入れて、救われてこそ、これらのことを聖書が語っている意味があるのです。
しかし、そうであるにも関わらず、これらの教えを拠り所として、わたしたちの目の前の人間を見て、この人は救われるかどうか、あの人は滅ぶだろうか、それを知ろうとしてしまうことが問題なのです。それは明らかに聖書が書かれた目的から逸脱した聖書の用い方だとわたしは思うのです。
そうやって白か黒かに人々をより分けてみたところで、意味のあることでは全然ないのです。それどころか、かえってその二者択一的な答えの結論に、自分で納得しかねてしまう結果に終わるだけです。もちろん、それでも冷徹に自分で出した結論を正しいと思う人もいるかもしれません。しかし、そうは思えないからこそ、この問題に対しての疑問が後を絶たないのではないでしょうか。
なんだか煙に巻いたようなことを言っていると思われるかも知れませんが、そうとしか言いようがありません。
聖書が教える滅びへの警告に耳を傾け、聖書が用意する救いの道筋を受け入れて、自分が救われていることを確信するのならば、それは聖書を正しく読んでいるといえるでしょう。あるいは、聖書の警告を無視し、聖書が教える救いの道筋を受け入れようとしない人がいれば、その人が救いに与ることが出来るようにと願うのであれば、これもまた正しい聖書の読み方でしょう。
けれども、ただある人が救われるか滅ぶかを論じたところで、それは意味のあることでもなければ、正しい聖書の読み方でもないのです。まして誰かが滅びることを確信するために聖書を読んでいるのだとすれば、それはおおよそ聖書の意図にそぐわない読み方です。
T・Hさんがニュースをご覧になって、「神様は兵士を救い、少女を地獄に落とすのでしょうか? 私は心情的にそんな事があるとは思えません」とお感じになったその感覚が大切なのだとわたしは思います。誰かが地獄に落ちてよかったと思う心では、神がその独り子を世にお遣わしになった神の御心さえも理解することは出来なくなってしまうことでしょう。
さて、本来ならば、この手の問題は予定論の問題、特に二重予定の教理の問題として教義学的な観点から論じた方が良かったのかもしれません。二重予定の教理というのは、神はあるものを永遠の命に予定し、あるものを永遠の死にあらかじめ定められたということを教える教説です。もちろん、全世界の改革派教会がすべてこの教説の立場にたっているわけではありません。
T・Hさんはそういう教理の解説への期待を込めてご質問をされたのかもしれません。ご期待に添えなかったことを大変申し訳なく思います。しかし、予定論の問題を持ち出したとしても、結局はご質問にあった疑問には直接の答えにはならないとわたしは思います。
二重予定の教理を鮮明に打ち出しているウェストミンスター信仰告白でさえ、この教理の扱いに対して、こう言っています。
「予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう、特別な配慮と注意をもって扱われなければならない」
つまり、誰かの滅びを断罪するするために、予定論を持ち出すのであれば、それは聖書が教えるこの教理の目的を逸脱してしまうということです。そういうこともあって、教理的な論争をここに持ち込むことを敢えて避けたのでした。
戦争で家族を失い火傷を負って苦しんでいる少女のニュース映像を見て、この少女がどの国のどんな宗教の人であれ、幸せな人生を歩むことが出来るようにと願うことこそ、御子イエス・キリストをお遣わしになった天の父なる神の御心ではないでしょうか。