2010年1月6日(水) クリスチャンになるとは? ハンドルネーム・キタさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・キタさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「わたしはクリスチャンではありませんが、番組をときどき聴かせていただいています。子供の頃から教会には憧れのようなものを感じていて、今でもキリスト教に対しても興味を持っています。もちろん過去にも何度か教会の礼拝にも足を運んだことがあります。
しかし、洗礼を受けるとなると、まだまだハードルが高いように思います。わたしにとって一番のハードルは他宗教との関係です。
先日どこかの政治家も言っていましたが、キリスト教は排他的な傾向が強いように思います。キリスト教は一神教なのですから、排他的でなければかえっておかしいというのは解ります。しかし、今、わたしがキリスト教に入信したとすれば、あっさりと他宗教との係わりを断ち切るとが出きるかどうか、今はまだ自信がありません。
現実の社会生活の中では様々な宗教的慣習と関わらざるを得ない状況はたくさんあります。冠婚葬祭、様々な式典、折々の行事。そう言ったものの多くは宗教的要素が絡んでいます。そのすべてを拒んで純粋にキリスト教信仰を守り抜かなければならないのかどうか、その信念がわたしにはないように思います。
それと、そうした様々な宗教にもそれぞれの尊厳さがあると思うのです。それを軽くあしらうのは、そうした宗教を信じている人々に失礼なような気がしてなりません。
結局、こういう他宗教との関係がネックとなって、キリスト教に興味はあるものの、未だに一歩踏み込む勇気がないのです。こんなわたしはやはりクリスチャンになる資格はないのでしょうか。」

キタさん、お便りありがとうございました。この問題は日本人にとって、というよりも、どこの国の人にとっても同じような問題は起りうるように思います。なぜなら、その国の文化や生活に宗教が一切関わっていないということは、ほとんどないからです。ですから、そういう環境の中でキリスト教信仰を持てば、それがどこの国であっても他宗教との問題に直面する可能性が生じてしまうのです。
ただ、その国とキリスト教がどういありかたをたどってきかによって、今なおギクシャクとした関係にあったり、今ではほとんど他宗教との関係が問題にならなかったりという違いが出てくるのだと思います。

日本人とキリスト教との係わりの歴史からいうと、残念ながらギクシャクした関係は今なお続いていると言わざるを得ません。その原因はひたすらキリスト教会が他宗教に対して排他的だからということにだけあるとは思いません。キリスト教に敵意を抱き、徹底的に迫害してきた何百年にも及ぶ長い日本の歴史もギクシャクした関係の一因であるように思います。そういう日本固有の歴史的環境の中でクリスチャンとして生きることに躊躇してしまうその気持ちは十分に理解できます。

しかし、お便りを読ませていただいて感じたことは、そうした躊躇する気持ちの大部分が、誤解と余計な心配から生じているのではないかということです。
結論から先に言わせていただければ、キタさんはクリスチャンになる資格がないどころか、キリスト教に対する関心という点からも、他宗教との関係からキリスト教を理解しようとして苦労している点からも、キリスト教を信じて受け入れようとする方向に導かれているように感じます。

お便りによれば、キタさんは「あっさりと他宗教との係わりを断ち切るとが出きるかどうか、今はまだ自信がありません」ということです。
まず「他宗教との係わりを断ち切る」というときに具体的にどんなことを想定していらっしゃるのでしょうか、キタさんご自身がおっしゃっているように、冠婚葬祭、様々な式典、折々の行事、そう言ったものが宗教的要素を含んでいることは否定できません。そうしたことと一切関わらないことがクリスチャンに求められているのだとすれば、クリスチャンはこの世から出ていくしかありません。それは明らかに聖書が求めていることではありません(1コリント5:9-10)。
問題は、そうした事柄とどう適切な距離を保つかと言うことだと思います。その適切な距離とは一切の関係を断ち切ってこの世から出て行くことではなく、自分の信仰を保ちながらこの世で暮らし、なおかつ、人々に誤解を与えずにこの世で暮らすということに尽きるのだと思います。
具体的に他の宗教とどう関わるのかは、信仰生活の中で一人一人が築き上げていくものであると思うのです。そういう生活を送ることができるのか自信がないというのは正直な気持ちだと思います。実際に失敗をしてしまうこともあるでしょう。しかし、失敗は絶対に許されないというのが信仰生活のあり方ではありません。失敗があっても赦されることを信じて、正しい道を歩もうと努めることがクリスチャンに求められていることです。正しい道を聖書に記された神の言葉から模索し、聖霊の導きに謙虚に信頼しながら歩むこと、これが信仰生活の道筋であるとわたしは信じています。

また、キタさんのお便りには次のようなくだりもありました。

「様々な宗教にもそれぞれの尊厳さがあると思うのです。それを軽くあしらうのは、そうした宗教を信じている人々に失礼なような気がしてなりません。」

この部分に関して言えば、それは唯一神教であるキリスト教を信じた必然的な結果ではないように思います。
確かに唯一神教であるキリスト教を信じているのであれば、同時に他の宗教を信じることも重んじることもありえないことです。しかし、そのことは必然的に他の宗教とそれを信じている人たちを否定したり軽蔑したりすると言うことではないはずです。その宗教が歴史の中で果たしてきた役割を正しく評価したり、その宗教を信じる人たちの存在を受け入れることは、キリスト教を信じていたとしても出来ることです。
ですから、キリスト教を信じたならば、必ず他の宗教のすべてを否定しなければならないと思うのは大きな誤解です。

他の神々を認めない唯一神教であるキリスト教を信じながら、宗教にもそれぞれの尊厳さがあることを認めるというのは一見言葉の矛盾のように思えるかもしれません。
しかし、宗教心そのものは神から人間に与えられた心ですから、それ自体は否定すべきものではありません。また、宗教心に導かれた人間が生み出したことのすべてが邪悪に満ちているというわけでもないはずです。その点を歴史的にきちんと評価することまでも否定することは出来ません。もし、それすら否定することが求められているのだとすれば、それこそキリスト教は独善的で排他的だと批判されても仕方ありません。しかし、唯一神教であるということは、他の宗教が生み出した文化をすべて否定しなければならないと考えるのは大きな誤解です。
当然、他の宗教を信じる人たちに対して、人間としての礼儀を失うことがあってはならないことは言うまでもありません。