2009年11月4日(水)家族の理解が得られないのですが… ハンドルネーム・akiさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・akiさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「もう随分前から、キリスト教を信じているのですが、家族の理解が得られず困っています。ラジオで番組を聴くこと、聖書を読むこと、クリスチャンと接することには理解があるのですが、毎週礼拝に通うこと、洗礼を受けることは絶対にダメだと言って、聞いてくれません。一旦、家を出て働いていたのですが、病気をして出戻ったため、家族の理解が得られないことは実質出来ない状況になっています。家族は特定の宗教を持たない大多数の日本人タイプです。こんな私に救いはあるのでしょうか?」
akiさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。お便りを読ませていただいて、一言では言い表せない複雑な思いを抱きました。しかし、とりあえず色々な思いはすべて脇へおいておいて、最後に記されたご質問の答えだけを考えてみることにしました。
「こんな私に救いはあるのでしょうか?」
この質問に対する答えは、単純に考えると「はい」か「いいえ」でしかありません。しかし、そもそも誰かが救われるとか、救われないとか、そういうことは人間が計り知ることができない問題だ、という答えもあるかもしれません。それももっともな意見だと思います。
けれども、どうすれば救われるのか、ということをキリスト教が宣べ伝えている以上、「わからない」という答えでは済まされそうもありません。もちろん、「わかる」といっても、それは聖書の中に直接の答えが記されているか、あるいは聖書に記されている事柄から論理的に導き出される事柄である場合に限られます。それを超えて何かを語ることはできませんし、また、それを逸脱して自由奔放に答えを出すことはできません。わからないことに対してはわからないと言わざるを得ない場合もあることを心に留めておく必要もあります。
さて、「こんな私に救いはあるのでしょうか?」という質問に、仮に「いいえ、そんなあなたは救われません。」と答えてみることにします。いったいその根拠は何でしょうか。本人がキリスト教を信じていると告白しているのに、その人が救われないというようなことがあるのでしょうか。
わたしには「いいえ」と答えた場合の根拠を挙げることができません。もちろん、本人が本当に信じているかどうか、ということを疑い始めたら、これはキリがありません。本人の告白が真実なものであると言う前提で話を進めています。
それでも敢えてその根拠を挙げるとすれば、「礼拝に集うことができないから」とか「洗礼を受けていないから」というような理由が挙げられるかもしれません。しかし、それでは、礼拝の出席や洗礼の有無が救いの根拠となってしまって、あきらかに「信仰による救い」を教える聖書の言葉と矛盾したものになってしまいます。
信仰があるからこそ神を礼拝し、信仰があると認められるからこそ教会はその人に洗礼を授けるのです。しかし、その逆は必ずしも正しいとはいえません。つまり、「洗礼を受けていないから信仰がない、日曜日の礼拝に出ることができないから信仰がない、従って、信仰がないから救われていない」…この論理はいつも成り立つとは限りません。もしそうだとすれば、洗礼式を直前に控えて、洗礼を受けることも叶わずに突然なくなってしまった人は、結局信仰がなかったということになってしまいます。あるいは、長年日曜日の礼拝に欠かさず集っていた人が、身体を病んでその後とうとう礼拝に集うことができなくなった場合、それはほんとうの信仰がなかったからだということになってしまいます。その結論はどう考えても聖書の教えとは矛盾しています。
では、「こんな私に救いはあるのでしょうか?」という質問に、「はい、あなたは確かに救われています」とはっきりと答えることにためらいがあるとすれば、いったい何が答えを妨げているのでしょうか。もしわたしが「はい、あなたは確かに救われています」という答えをこの番組の中で堂々と述べたとしたら、その答えに眉をひそめる人はなぜ眉をひそめるのでしょうか。
やはりその人たちにとっては「日曜日の礼拝」のことと「洗礼」のことが引っかかるのだと思います。「そんなことを言い出したら、礼拝も洗礼も意味がなくなってしまう」と思うのかもしれません。
「はい、あなたは確かに救われています」という答えが、洗礼や礼拝をないがしろにすることを黙認しているのだ、と受け止められるのだとすれば、それは大きな誤解です。本人は洗礼を受けることを拒んでいるわけでもありませんし、また、礼拝に集わないことを願っているわけでもありません。ほんとうに信仰があるなら、家族の反対を押し切ってでも洗礼を受け、礼拝に集うべきだ、という意見は一見もっともらしい正論のようにも見えますが、それはあまりにも目に見える形にこだわりすぎているようにも感じます。人にはそれぞれの事情があり、それぞれの弱さや足りなさがあることを、互いに受け入れるのでなければ、そもそも、人は救われる前に完全な人でなければならない、ということになってしうまうでしょう。もし完全であることが求められるのだとしたら、そもそもキリストを通して与えられる救いとは何なのでしょう。
さて、akiさんに心がけて欲しいことがあります。それはakiさんが今おかれている状況を必要以上に悲観的に思わないようにしていただきたいと言うことです。
パウロはローマの信徒への手紙8章39節で「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と述べています。
それはわたしたちが完全だからでしょうか。そうではありません。神が不完全なわたしたちを選び、神が不完全なわたしたちを召してくださっているのです。だからこそ、どんな被造物も信じる者たちを訴えて神の愛から引き離すことができないのです。
キリスト教を信じると言うことは、神の御前に自分が不完全であることを受け入れることと、その不完全な自分を神がキリストにあって選んで下さっていることを信じることではないでしょうか。そのことを拒むのだとすれば、洗礼も礼拝も意味がありません。
気休めだと言われてしまうかもしれませんが、akiさんが今置かれている状況は、絶対にこのまま変わることがないとは、わたしは思いません。人間が置かれている状況はいつでも変化しうるものです。それはakiさん自身が今まで経験してきていることではないでしょうか。
ご家族の反対が絶対に変わらないと決め付けてしまわないでください。主が最善をなして下さることを信じて、今家族から許されていること…ラジオでキリスト教の番組を聴くこと、聖書を読むこと、クリスチャンと接することを大切に続けてください。