2008年12月31日(水)人類は肉食ではなく草食が理想なのでは? Tさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はTさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「どうしても聞いてみたかったことがあります。創世記1章28節〜30節に、『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ。』さらに、『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。…』とあります。つまり、草と木の実を食べよ、と神はおっしゃっています。魚や肉を食べても良いとは言っていません。しかし、人類は魚を食べ、肉を食っています。どうしてですか?????
そして、30節の最後に、『そのようになった。』とあります。『そのようになった』とは、どういう意味ですか???」
Tさん、お便りありがとうございました。実はわたし自身もはじめて聖書を読んだとき、同じようなことを思いました。創世記の1章によれば人間は植物を食べて生きるように記されているのに、どうして、そして、いつから肉を食べるようになったのだろう。聖書の人間観はヴェジタリアン、菜食主義を理想としているのだろうか。などなど、いろいろな疑問が頭の中をよぎったことを思い出します。
初めの疑問…人類がどうして、そしていつから肉食になったのかという疑問に関しては、すぐに謎が解けました。というのは、創世記をもう少し読み進めていくと、その答えが出てくるからです。Tさんご自身で答えを見つける発見の喜びを奪ってしまっては申し訳ないのですが、ノアの洪水の時代が終わったすぐ後に、神はノアにこんなことをおっしゃっています。創世記の9章2節以下です。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」
この神からの言葉はTさんが引用してくださった創世記1章28節から30節までの言葉と非常によく似ています。ただ、決定的に違うところは、人が食べても良い食べ物に関しての部分です。つまり、ノアの洪水の後、初めて神は人類に動物の肉を食べることを許されたのです。
ですから、「いつから」ということに関しては、「ノアの洪水が終わった後から」ということになるでしょう。「どうして」と言う部分に関しては「神がそのようにお命じになったから」ということになります。
では、なぜ神は洪水の後に肉食を許されたのか、ということが、すぐにも疑問として上ってくると思います。その点に関しては、残念ながら明確な理由は記されていません。ただ、考えても見れば、洪水によって全地は植物自体も壊滅状態だったのですから、次の収穫の時まで食べ物がないと言うのでは困ります。箱舟の中で生まれた動物もいたことでしょうから、神はその動物を食べることを許されたのではないかと想像することができると思います。
では、ノアの洪水が起らなければ、言い換えれば、洪水の原因である罪が人類に入ってこなければ、人間はずっと植物だけを食べて生きていたのでしょうか。あるいは、聖書の人間観では、人間の理想は菜食主義と言うことなのでしょうか。
残念ながら、この問いには答えることはできません。ただ聖書は植物を食べていた人間が、結果として後に動物を食べることも許されるようになった、という事実だけしか記していないからです。洪水がなくても、やがては肉食を神が許したかどうか、あるいは、逆に洪水がなければ肉食を神は決して許さなかったかどうか、どちらについても断定した答えを聖書から導き出すことはできません。
さらに、こういう疑問も当然出てくるだろうと思います。それは、果たして聖書が記している食べ物に関する記述は、考古学の発見や医学的見解と合致するのかどうかと言う疑問です。
単純に考えれば農耕生活より狩猟生活の方が先であるような気がしますが、しかし狩猟生活と自然に生えている木の実や植物を採取して食べる生活のどちらが先であったのかと考えると、さほど道具や技術を必要としない採取生活の方が先のような気もします。こうした疑問に関してはぜひ、それぞれの専門家に意見を聞いてみてください。
それよりも、さらに興味あると思われる疑問は、ノアの時代より前に、人類は決して肉を口にすることはなかったのだろうかという疑問です。
たとえば、創世記にはアダムとエバの子供であるカインとアベルは、それぞれ農耕生活を送る者と家畜を飼う者であったと記されています。農耕生活は当然、食糧を確保するための仕事です。では、家畜は何のために飼っていたのかというと、まだ肉は食糧として認められてはいなかったわけですから、食糧以外の用途のために、例えば毛皮を利用するとか、農作業に必要な労力のために利用されていたのでしょう。
けれども、ノアの時代には罪が蔓延していたわけですから、神の言うことを従順に守って、決して肉を口にしなかったなどとはいえない状況であったことは十分に考えられることです。あれだけ食べてはいけないと言われた善悪を知る木の実を食べたアダムとエバなのですから、その子孫が神の言いつけを従順に守ったとは考えられません。
ですから、もし仮に肉食の歴史がノア以前にもあったという考古学上の発見があったとしても、それはありえないことではありません。
最後に、Tさんのもう一つの質問を簡単に取り上げて終わりたいと思います。
創世記1章30節の最後の言葉…「そのようになった」という言葉の意味についてです。
この言葉は創世記に1章に繰り返し出てくる言葉です。具体的には、7節、9節、11節、15節、24節、30節の6ヵ所です。このフレーズは創世記にはこのあと一度も出てきません。
そして、創世記の1章にこの言葉が出てくるのは、すべて「神は言われた」と言う言葉に対応しています。「そのようになった」というフレーズの前をたどっていくと必ず「神は言われた」というフレーズに対応しているのです。つまり、「そのようになった」とは「神が語られたとおりになった」「神の御心どおりになった」、したがって「見よ、それは極めて良かった」ということになるのです。もっともどういうわけか五日目だけは「そのようになった」という言葉が出てきません。しかし、五日目だけは神の言われたとおりにならなかったと言うことではないでしょう。なぜなら、他の日と同じように神はそれを見てよしとされたからです。