2008年12月24日(水)なぜマルコ福音書に降誕記事はないの? ハンドルネーム・ハットさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ハットさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも番組を感謝して聴いています。
さて、早速ですが先生に質問があります。
マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は互いによく似ているところから共観福音書と呼ばれていますが、マルコ福音書には他の福音書とは決定的な違いがあります。それはイエス・キリストの降誕記事がないと言うことです。なぜ、マルコ福音書にはイエス・キリストの誕生の記事がないのでしょうか。マルコ福音書はイエス・キリストの誕生に興味や関心がなかったということでしょうか。それとも、マルコ福音書の記者には、イエス・キリストの誕生にまつわる史料が手に入らなかったということでしょうか。
そのあたりのことを教えていただきたく、よろしくお願いします。」

ハットさん、メールありがとうございました。新約聖書に置かれた最初の三つの福音書に限ってみると、確かにご指摘のとおり、マルコ福音書にはマタイやルカ福音書のようなイエス・キリストの誕生物語はまったく記されていません。いきなり洗礼者ヨハネの活動から話が始まって、このヨハネから洗礼を受けるイエス・キリストが登場します。
これにヨハネ福音書を加えて、四つの福音書すべてを見渡してみると、それでもマルコ福音書が特別にキリストの誕生について何も語っていないと言う点は変わりありません。しかし、ヨハネ福音書にマタイやルカのような誕生記事があるかというとそうではありません。確かにヨハネによる福音書には「ロゴスの受肉」についての有名な言葉が記されています。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)
この言葉はイエスの誕生に何らかの形で言及していますが、明らかにマタイやルカの記事とは語り口が異なっています。
そうすると、四つの福音書がイエスの降誕を扱う仕方は、マルコのようにまったく触れないもの、マタイやルカのように出来事を詳しく記すもの、そしてヨハネのように出来事の詳細には触れないで、「ロゴスの受肉」という神学的な観点から描くもの、というバラエティーに富んでいることが分かります。
さらに、これらの扱いを福音書の成立年代の順に並べてみると、一番最初に書かれたマルコ福音書には誕生の記事がまったくなく、そのあとに成立したマタイやルカになって初めてキリストの誕生について触れられるようになり、さらに時代が進んでヨハネ福音書の時代になると、誕生の事実よりも、その意味についての考察に関心が移っていったという流れをむることができると思います。もっとも、マルコ福音書の成立からヨハネ福音書までの期間はわずかに30年ほどですから、時代による変遷と言うほどのものなのか、それとも単に福音書が対象としている読者や地域の違いによって、取り上げ方に違いが生じたのかはハッキリ断定することはできません。

さて、もう少し範囲を広げて、新約聖書に残されている文書全体で見た場合どうでしょうか。今日手にしている新約聖書は、イエスの生涯を記す福音書から始まって、教会の歴史を描いた使徒言行録、そして使徒たちの書いた手紙、最後はやがて起るべきことを記した黙示録という順番に並んでいます。こうした各書物の並びの順番は、内容に即して配列したものであって、必ずしも成立した年代の順番ではありません。
福音書が書かれるよりももっと前に、と言ってもせいぜい十数年しか離れてはいませんが、使徒たちによって書かれた書簡があります。そして、その書簡を読むと、イエス・キリストの誕生について、マタイやルカの記事を思わせるような記述はまったく出てきません。では、キリストの誕生以外のことなら、キリストの生涯に触れた記述がパウロたちの手紙の中に出てくるかというと、これもほとんど出てこないといっても言い過ぎではありません。手紙の中でキリストについて記される場合のほとんどは、十字架と復活のキリストについてです。
つまり、マルコによる福音書がまだ記される前の教会にとって、一番の関心は十字架で処刑されたメシアについてであり、復活されたキリストであったと言うことができると思います。
考えてもみれば、ローマの法廷で裁かれ、極刑である十字架で処刑された者が、どうして世界の救い主でありえるのかという弁明はキリスト教の宣教にとって避けて通ることができない道です。当然そのことについて多くの紙面が割かれるのは当たり前のことです。
もちろん、使徒たちがこの地上に生まれる前のキリストについて何も知らなかったと言うわけではありません。たとえば、パウロの書いたフィリピの信徒への手紙の2章には、神と等しかったキリストが僕のかたちをとって我々のところへやってこられたことが記されています。ですから、情報が不足していてキリストの誕生について書くことができなかったと考えることは正しくないのだと思います。

このことはマルコによる福音書にも当てはまると思います。
マルコによる福音書に関して、しばしば言われることは、マルコによる福音書は「長い序章のついた受難物語である」ということです。
つまり、マルコ福音書の関心は、決してキリストの生涯を最初から順序だてて記すことではないということです。むしろ最大の関心はキリストの受難を正しく語ることにあるのです。そして、このキリストの受難についての物語を中心にして、その序章であるキリストの生涯が必要に応じて配置されていったというものです。

もちろん、そうしたマルコ福音書に対する見方は、後世の聖書学者たちの意見ですが、しかし、その見解は当を得たものであるとわたしには思われます。

ハットさんのご質問に敢えて答えるとすれば、マルコ福音書はイエスの誕生に興味や関心がなかったと言うのでもなく、また、イエスの誕生にまつわる史料が不足していたと言うのでもなく、あくまでもキリストの受難を中心に据えて福音書を書き上げたかったという意図から、イエス・キリストの誕生について取り上げる余地がなかったということなのだと思います。

では、逆にマタイやルカはなぜイエスの降誕にまでさかのぼって福音書を描いたのでしょうか。少なくともルカによる福音書の序文には、明らかにマルコ福音書とは違った執筆の意図があることが記されています。つまり、ルカによる福音書は「すべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて…献呈するのがよい」と思ったとあります。もはや十字架と復活を中心に福音書を描くというマルコの描き方に捕らわれないで、もっと事柄をさかのぼって、イエスのメシアとしての活動全体を最初から描こうとしたのでしょう。したがって、ルカによる福音書はイエス・キリストの誕生にまでさかのぼって、いえ、誕生以前の神の特別な準備にさかのぼって福音書をまとめているのです。