2008年12月17日(水)教会員になるとき教理教育は必要ですか? 京都府 S・Sさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は京都府にお住まいのS・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「教会員になると教理問答や信仰講座を受講しなければならないそうですが、キリスト教徒となるのにこれらは必須の科目なのでしょうか? 例えば改革派の信仰について知る場合、カルヴァンやバルトの著作物を読解すれば、教義の大枠はわかるような気がするのですが。」

S・Sさん、お便りありがとうございました。S・Sさんが今回のご質問寄せられた背景を短いメールから知ることはなかなかできませんので、わたしの回答が的外れなものになってしまうかもしれません。どうか、そのときにはお許しください。

さて、教会で教理の学びが求められるのは、三つか四つの機会があるように思います。
その一つは洗礼を受けようとする場合です。もちろん、洗礼を受けようと願うくらいですから、キリスト教についてまったく何も知らないということはないと思います。しかし、それでも自分が何を信じて洗礼を受けようとしているのか、確認し納得する意味で大切な機会だと思います。
二番目の機会は、これは機会というよりも、信徒としての生涯学習のようなものだと思うのですが、教会では時々に応じて教理の学びの場が提供されています。
三つ目の機会はすべての人が対象ではありませんが、長老や執事などの教会の役員になる場合、改革派教会や長老派教会では信仰基準に対する誓約が求められますので、役員の候補には特別な学びの機会が設けられます。
そして、最後に四番目の機会は、これもすべての人が対象ではありませんが、牧師となって教会を牧会し指導していく人には、当然のことながら教理の学びのために特別な機会が設けられています。特に教派立の神学校はそのための特別な教育機関として機能しています。

S・Sさんのご質問は文面からして一番目のことか二番目のことに関してのものと理解いたしました。

まず初めに洗礼を受ける準備のために、教理問答の学びや信仰講座を受講しなければならないか、ということに関しては、先ほども触れたとおり、自分がこれから受け容れようとしているものが何であるのか、確認し納得する上で、避けて通ることはできないように思います。
ただし、どんな学びが必要なのかはその人によって違うように思います。つまり、皆が同じと言うわけではありません。不治の病で余命後わずかと宣告された人が病床で洗礼を願っている場合と、健康で学習意欲も旺盛な人との場合では、時間のかけ方も内容も違って当然です。
ただ、最低限、洗礼の時に誓約をしていただく事項についての理解に役立つ学びはどの人にとっても必要であると思います。

わたし自身のことを言いますと、わたしが洗礼を受けようと願ったのは17歳のときでした。そのとき洗礼の準備会に使ったテキストはカルヴァンの『信仰の手引き』でした。週に一回、三ヶ月ぐらいかけて牧師と二人で学びの機会を持ちました。
読むだけならば、わたし一人でも読むことはできたかもしれません。ただ、キリスト教の知識がほとんどなかったわたしですから、やはり改革派教会の教理を熟知した牧師の指導は、理解の上でとても助けになりました。
どんなテキストを使ってどんな学びをするにしても、教理の全体像を把握している人と一緒に学ぶということは不可欠であるように感じます。

では、信徒となってからの教理問答の学びや信仰講座の受講はどうでしょうか。
日本キリスト改革派教会の場合を例にあげると、それぞれの教会には信徒教育のための広い意味での教会学校があります。これはいわゆる未信者の子どもを対象にした日曜学校のことではありません。それぞれの教会には、たとえば男子会や婦人会、青年会といった学びと交わりのための会が設けられています。またそれぞれの教会の枠を超えて、たとえば神学校や神学研修所主催の信徒講座が開かれたり、地域の教会が集まって連合の青年会や連合の婦人会が開催されて、講演会がもたれたりします。
もちろん、その内容はいつも厳密な意味での教理とは限りませんが、広い意味で教理にも関わってくる内容です。
さて、先ほども言いましたが、こうした学習はいわば生涯学習のようなものです。一人一人にとってはその時々の状況でこれらの集会に参加できるかできないかは違ってくるのはやむを得ないことです。ただ、そうであったとしても、生涯学習そのものに意味がないと言うわけではないはずです。
少なくとも改革派教会の信仰告白や教理問答に対する取り組みの姿勢は、いつも時代と状況を踏まえて、あたらしく自分たちの口で信仰告白しようと願う姿勢です。つまり、信仰告白と言うものは決して固定化されるものではないということです。そういう意味で、何百年前に書かれた物を一度読んで理解したら終わりと言うようなものではないのです。たえず自分たちの置かれている歴史的文化的な状況の中で何を信じ、何を告白するのか、そのことを信徒としての意識の中においておくことはとても大切なことだと思います。
もちろん、こうしたことも誰かの書いた本を読むことで代用できるかもしれません。先ほどあげたいくつかの信徒講座や連合会の講演は、本としてまとめられて読むことができます。ただ、一人で本を読んで得る知識は、その人の理解力を超えることはできません。誰かと一緒に学ぶときには、自分の理解を広げたり深めたりするチャンスはより大きいと言えると思います。

最後に、教会役員としての教理の学びについて少しだけ触れて終わりにしたいと思います。
これは改革派教会や長老派教会の特徴だと思うのですが、教会の役員となる場合には、教理に対しての誓約も求められます。日本キリスト改革派教会の場合ですと、ウェストミンスター信仰基準を教理の体系として受け容れるかどうか、誓約が求められます。もちろん、その前に聖書を神の言葉として受け容れるかどうかという大きな前提があります。

同じ改革派教会であっても、ウェストミンスター信仰基準ではなく、ドルト信条やハイデルベルク信仰問答を教会の教理として採用しているところもあります。
ただ、ここで注意をしなければならないのは、カルヴァンのキリスト教綱要やバルトの教会教義学に対する誓約ということはありません。それらはあくまでも個人の著作であって、教会の会議を通して成立したものではないからです。
そういう意味では、役員となるために学ぶ教理は、決してカルヴァンやバルトの本を読むことで代用することはできないのです。もちろん、教会の信条を理解する上でそれらの本が助けになることは言うまでもありません。