2008年11月26日(水)刑罰の軽減について 埼玉県 Y・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのY・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介する前に少しだけご質問の背景を説明させていただきます。
今回「ふくいんのなみ」のホームページを通していただいたお便りは、9月17日に放送された「クリスチャンは裁判員になれなるのか」というご質問に関係するものです。その日の番組では、新しく始まろうとしている裁判員制度についてのご質問を受けました。その質問の中にこんなことがありました。
「イエス・キリストは『赦しなさい』とおっしゃっています。もし、クリスチャンが裁判員になった場合、無罪になったり刑が軽くなったりして、他の裁判との間で不公平が生じることはないのでしょうか。」
この質問に対して、どのくらいの刑が適当であるかの判断は、確かにその人の価値判断の基礎となる思想や信条によってかなりの幅が出てくることは否めないということをまずお答えしました。しかし、だからといって「赦すこと」を信条の一つにしているクリスチャンが参加することで刑罰が重い方向へ行くのか、軽い方向へ行くのかは一概に言うことはできないというのがわたしの結論でした。こうした番組でのやり取りをお聞きになって、今回のご質問が出てきたのだと思います。
そこで、Y・Hさんからいただいたご質問をご紹介します。
「被告人が罪を認め、悔い改めている場合はより軽い刑がふさわしいのでしょうか。」
Y・Hさん、いつも番組を聴いてくださり、番組に関連したご質問を早速送ってくださりありがとうございます。
9月の番組で取り上げたのは、裁判員制度に関したことでしたので、今回のご質問もその流れの中で出てきものと理解させていただきました。そうするとご質問は教会での裁判のことではなく、この世の裁判に関するご質問と受け止めてよろしいでしょうか。もしそうであるとしたら、この問題についてわたしが答えることがふさわしいかどうか躊躇いたします。どの犯罪にどういう重さの刑罰がふさわしいのかは、刑法や刑事政策の問題ですから、とうてい素人のわたしが答えられるような問題ではありません。
しかし、素人ではありますけれども、やがてスタートする裁判員制度によって裁判員に選ばれたとすれば、こうした問題に関わらざるを得なくなることは明らかです。前回ご質問を取り上げたときの放送でも触れましたが、この制度は、個人的な思想や信条を理由として裁判員になることを拒むことができないものです。ひとたび裁判員に選ばれたならば、原則としてその務めを果たさなければなりませんし、関わった裁判事件の被告人が有罪であると結論した場合、法律の範囲内でどれくらいの刑罰がふさわしいかを判断しなければなりません。
当然、Y・Hさんがご質問してくださったように「被告人が罪を認め、悔い改めている場合はより軽い刑がふさわしいのでしょうか。」という疑問に自分で答えを出さなければいけないのです。
しかも、裁判員制度が導入される一つの狙いは「裁判官の感覚が一般市民とかけ離れているから」という、その感覚の開きを埋め合わせることですから、わたしたちがそのことをどう考えているかはとても重要なことです。
もちろん、わたし自身は裁判所が出す判決について、いつも興味深く注意して見ているわけではありませんから、裁判官の感覚が一般市民の感覚とどうずれているのか詳しくは知りません。ただ、時々耳にするところによれば、裁判官の下す判決が被告人に対して同情的で、被害者や被害者の遺族の感情からかけ離れているということがあるようです。もちろん、そういう判決ばかりなのかどうかわたしは知りません。
ただ、わたしが経験した数少ない教会裁判での事例からいっても、教会が下した判決が必ずしも一般信徒の感情を満足させるものではなかったという経験があります。まして、この世の裁判では思想も信条も人生観も多様な人々を同じように満足される判決を下すことなどなおさら難しいことだろうということは分かります。そもそも、「一般市民の感覚」という言葉でひとくくりにできる「感覚」などと言うものがあるのでしょうか。
ちなみに日本キリスト改革派教会の規定によれば、戒規を含む教会訓練の権能は「建設のためであって、破壊のためではなく、またあわれみをもって行使すべきであって、怒りをもってすべきではない。教会は、母がその子らをかれらの益のために矯正するごとく、教会の子らがキリストの日にとがなきものとして聖前に立ちうるように行為すへきである」と定められています。
怒りや復讐心を満足させることを第一に考えるとすれば、教会の判決はしばしばそれを裏切ることになることは否めません。怒りの感情を静めたり、復讐心を満足させることがそもそも教会の裁判のあり方ではないからです。その人が真実に悔い改め、キリストのうちを再び歩み、終わりの日に神の御前に立つことができるように訓練することが目的だからです。
では、ご質問いただいた問題をこの世の裁判ではどう考えたらよいのでしょうか。「被告人が罪を認め、悔い改めている場合はより軽い刑がふさわしいのでしょうか。」
そもそも、「目には目、歯には歯」という原則を貫くとすれば、被告人には与えた損害と同じものを償わせるのですから被害者の復讐心を満足させることができます。しかし、近代国家では私的制裁を禁じ、国家が個人に成り代わって法律によって犯罪人を処罰する事となりました。もちろん、国家が個人に成り代わって「目には目、歯には歯」の原則にしたがって制裁を加えることもできなくはないでしょう。しかし近代国家では、その原則の代わりに、課すべき制裁の種類と重さを法律によって定めました。
ただ、その刑罰の存在理由について、古くからの考え方は、応報にありました。つまり犯罪の重さに相当した分の害悪を犯罪人に報復するという考えです。徹底的にその立場に立つとすれば、「罪を認めているかどうか」「反省しているかどうか」という被告人側の事情はまったく考慮されなくなってしまいます。
しかし、もう一つの刑罰の存在理由の考え方は、刑罰の目的は犯人の教育であると考えます。「罪を認めているかどうか」「反省しているかどうか」ということは課せられるべき刑罰の重さを考える上で影響を及ぼします。再び犯罪を犯す可能性が少ないと判断すれば、厳罰をもって望む必要はないでしょう。
結局こうした刑罰の目的をどう考えるのかということが判断に影響を及ぼすと言うことではないでしょうか。