2008年11月5日(水)一万タラントンの意味は? ハンドルネームtadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームtadaさんからのご質問です。今回のtadaさんからのお便りは、ご質問と言うよりは、番組をお聞きになってのご意見です。
番組を聴いていらっしゃる方のために少しだけ背景をご説明してから、tadaさんのお便りをご紹介したいと思います。
いただいたお便りは2007年1月4日(木)放送の『聖書をひらこう』に関する内容です。その日の番組ではマタイによる福音書18章23節以下に記されたイエス・キリストのたとえ話を取り上げました。1万タラントンの借金をした家来が、王様から借金全部を帳消しにしていただくという話です。
そこで、その1万タラントンがどれくらいの金額なのかと言うことを説明するために次のように番組の中で言いました。
「1タラントンはローマの銀貨6000デナリオンにあたります。1デナリオンは1日の日雇い労働の相場であると言われていますから、1万タラントンは6000デナリオン×1万で、つまり6000万日分の日雇い労働賃金に当たることになります。要するにこの先一生日雇い労働をしたとしても、返せるような額ではないことは明らかです。」
少しだけ補足説明させていただきますと、6000万日というのはは365日休まず働いても、ざっと16万4000年かかると言うことですから、これは人間の寿命を遥かに超えた返済不可能な金額です。
それに対して、tadaさんはこの1万タラントンという金額が持つ意味について、違った観点で説明をしてくださいました。お便りをご紹介します。
「この1万タラントンを理解しやすくするために必要なのは、なぜ1タラントンが6000デナリオンかということです。一日の労働の報酬が1デナリオンであり、年間300日労働して年収が300デナリオンです。6000デナリオンは、20年分の賃金です。当時の人間の平均寿命を考えると、30歳程度でありましょう。つまり、人間一人が生涯働いてえる賃金が6000デナリオン=1タラントンではないですか。そうすれば、1タラントンを6000デナリオンと定義した意味がわかります。1タラントンとはその言葉通り、人間一人の通貨価値なのです。ですから、1万タラントンは、1万人分の生涯賃金ということです。」
いただいたお便りを読ませていただいて、なるほどそういう考え方もあるのかと、読みの深さに感心いたしました。
しかし、平均寿命を三十歳と考えて、十歳から働き始めて平均寿命の三十までの二十年間で一タラントンを稼ぐのが、当時の一般的な民衆の生涯年収に対する感覚だと考えるのは、無理があるような気がいたします。
そもそもイエスの時代のパレスチナの人々が平均して何歳ぐらいまで生きていたのかと言うことに関して、三十歳を平均寿命と考えることが正しいのかどうかという疑問が一つあります。
一般庶民が自分の正確な年齢について知っているというのは、戸籍が整備された近年に入ってからのことです。では、どうやって当時の人たちがどれくらい生きたのかを知ることができるのでしょうか。
一つは王の年代記です。紀元前926年から597年まで王様の寿命を見ると、最も若い人で21歳、最も長生きをした人で66歳と言われています。つまり平均すればおよそ44歳と言うことになります。庶民はこれよりも栄養事情が悪いので寿命が短いとも考えられますが、逆に謀反や王位継承争いによる死の危険性がない分、寿命が長いとも考えられます。その分を差し引きして考えたとしても平均寿命が王と庶民とで14歳も開きがあったとは考えられないのではないでしょうか。
もう一つの平均寿命を知る手がかりは墓から出てくる骨からの推測年齢です。それに関する有名な書物が二冊あります。O・カイザーとE・ローゼの『死と生』(ヨルダン社、1980年)という書物とB・マリナーとR・ロアボーの『共観福音書の社会科学的注解』(加藤隆訳、新教出版社、2001年)の二冊です。とくにマリナーとロアボーは次のように記しています。
「古代都市においては、生れた子どもの三分の一近くが、六歳になる前に死亡していた。十歳代半ばで60%が亡くなり、二十歳代半ばで75%、そして四十歳代半ばまでには90%が亡くなった。六十歳代に届くのはおそらく3%ほどであっただろう。普通の人で、三十歳代から先まで生きる人はほとんどいなかった。」
この記述からするとかなり平均寿命は低いという印象を受けます。なにしろ十代半ばまでには60%の人が亡くなるのです。言い換えれば生まれ故郷に同い年の幼なじみが二十人いたとしても、十五歳になるまでには自分を入れて8人しか生き残らないとすれば、人生はものすごくはかない感じるはずです。
ところが、人生のはかなさについてあちこちで記している詩編でさえ「人生の年月は七十年程のものです。 健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。」と語っているのです。従って、統計的な計算から平均寿命が三十歳より短いとしても、経験的な体感年齢はもう少しは長生きだったのではないかと思われます。そうでなければ、この歌は庶民の感覚から随分ずれている歌だということになります。
実際イエスの時代よりも古い時代の民数記でさえ、レビ人の引退年齢は五十歳と規定していました(民数記8:5)。また、別の箇所では「臨在の幕屋で作業に従事することのできる三十歳以上五十歳以下の者である」(民数記4:3)とありますから、もし平均寿命が三十歳であるなら「三十歳以上五十歳以下」と規定しているのはナンセンスということになります。
さらに、イエス・キリストが洗礼を受けて公の活動を開始された年齢がおよそ三十歳であるというルカによる福音書の記述を考えると(ルカ3:23)、キリストは平均寿命を越えた年から活動を開始したことになります。しかし、その三十そこそこのイエスに対して「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」(ヨハネ8:57)と非難しているユダヤ人たちの言い草は、三十歳はまだ若造という印象を受けます。
実際の平均寿命がどれくらいであったかと言うことは別にして、その時代を生きた人たちの感覚からいうと五十歳くらいまでは生きられるというのが気持ちの上であったのではないかと思います。
さらにいえば、「生涯賃金」という考え方そのものが当時の人たちに普通にあったのかさえ疑問です。現代でさえ自分の生涯年収がいくらぐらいか計算できるのは安定した大企業で働く人の話です。当時の日雇い労働者が一日1デナリオンもらえたとしても、そこから安定的に生涯年収など計算することなど考えもつかないことでしょう。ですから、イエス・キリストがたとえ話で用いた「1万タラントン」と言う単位は「1万人分の生涯賃金」という意味ではなく、単に「返済不可能な額」という意味であったとわたしは思います。