2008年10月29日(水)黄泉の国とは? T・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、その後いかがお過ごしですか。
また、番組をお聞きの方の体と心の健康をお祈りします。
さて、今日の質問はキリスト教徒である私が100%救われると確信できないために前から持っていた質問です。ずばり、地獄(黄泉の国)とはどんなところでしょう? 永遠の火に入ると言う事が本当にあるのでしょうか? 少し火傷しただけで飛び上がるほど熱いのに、そんな事があるなんてとても恐ろしいです。
よろしくお願いします。」
H・Tさん、お久しぶりです。番組のためにいつもお祈りありがとうございます。
さて、人間は死んだ後どうなるのだろうか、という心配は誰もが一度は抱いたことがあるのではないかと思います。そういう意識を人が生まれながらに持っているのか、それとも死後の世界について誰かから聞いて不安に感じているのか、そのところははっきり分かりません。ただ、ほとんどの人が一度は死について考えたことがあるということと、死について心地よく好ましいイメージとして最初から描く人はほとんどいないということは確かなようです。
この世の人々が死をどう理解するのか、ということはさておくとして、少なくとも聖書では、死は決して望ましい事態ではありません。というのは聖書によれば、死は罪の支払う報酬として理解されているからです(ローマ6:23)。罪という神に敵対する事態が起らなければ、死もなかったのです。
新約聖書の中には死んだ人が行く場所として、大きく分けて二つの場所が描かれています。その二つの世界は、救われた者の行く場所と、そうでないものの行き着く先として描かれています。
救われる者たちの行き着く場所は、一般的には「天国」と呼び習わされていますが、特定の名前が与えられているわけではありません。イエス・キリストは自分と一緒に十字架に掛けられた一人の犯罪人に対して「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。それでその場所を「楽園」あるいは「パラダイス」と呼ぶ場合もあります。
また、ヨハネによる福音書では「あなたがたのために場所を用意する」とイエス・キリストはその場所についておっしゃっています。
パウロは「天国に行きたい」という表現は使わずに「この世を去って、キリストと共にいたい」(フィリピ1:23)という表現を使います。もっともパウロは「眠っていても目覚めていても(つまり、死んでいても生きていても)キリストと共に生きる」という表現を使っているのですから(1テサロニケ5:10)、キリスト共にいるという意味では死後も生前も変わるところがないということでしょうか。しかしまた別の箇所では「天にある永遠の住みか」(2コリント5:1)という表現を使っています。そして「わたしたちは…体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」とも語っています(2コリント5:6)
もっとも、パウロは終末のときに完成され、救われる者たちが住む場所にかんしては、それを「神の国」と表現します。そこは救われた義人だけが住む世界です(1コリント6:9-10、15:50)。
それに対して「地獄」あるいは「黄泉」(陰府)と呼ばれる場所が、神を信じないために救われない者が行く場所として定められています。
たとえば、ルカによる福音書の16章19節以下に出てくる『金持ちとラザロ』のたとえ話の中では、ラザロが天使たちに従えられてアブラハムの側に連れて行かれるのに対して、金持ちは死んだ後、陰府にくだります。
ところで、この「地獄」あるいは「黄泉」(陰府)と呼ばれる二つの場所が厳密に区別されているのかどうかははっきりしません。しかし、どちらかといえば「黄泉」は最後の審判の時までの一時的な場所として理解されているようです。
黙示録20章13節によれば最後の審判の際に陰府は死者を吐き出すように描かれています。
陰府が一時的な死者の預かり場所のように表現されるのに対して「地獄」の方はどちらかと言うと「永遠の裁き」として描かれることが多いようです。地獄と共に「永遠の火」や消えることのない炎が描かれるのもそのためです。
ちなみに「地獄」と訳されている「ゲヘナ」というギリシャ語は、元々はヘブライ語の「ゲヒンノム」という言葉からきています。「ゲヒンノム」つまり「ヒンノムの谷」と呼ばれる場所はエルサレムの南と西に広がる谷で、その昔、異教の神モレクに子供を犠牲として献げた場所でもありました。そのためにエレミヤはこの谷を「殺戮の谷」と呼ばれると預言しました(7:32)。そんなこともあって、のちに地獄のことをゲヘナと呼ぶようになったのです。そして、その場所は火で焼き尽くす恐ろしい場所というイメージを伴うようになったのです。
地獄が実際に燃え尽きることない火が燃え盛る場所なのか、それとも永遠の裁きをそのように象徴的に表現したのかは分かりませんが、いずれにしてもそこが恐ろしい場所であることは間違いありません。イエス・キリストは「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコ9:48)とおっしゃっています。
このキリストの言葉を決して軽く見たり、割引して考えることは許されないことだと思います。しかし、聖書がわたしたちにもたらされた理由は、「独り子(イエス・キリスト)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」です。そのことを疑わないで信じることこそ、わたしたちにとっては大切なことではないでしょうか。