2008年9月24日(水)聖霊を信ずとは? ハンドルネーム ヤスさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ヤスさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも番組を楽しく聞かせていただいています。
早速ですが、わたしの素朴な疑問にお答えいただければ嬉しく思います。
質問というのは、使徒信条に関するものですが、『我は聖霊を信ず』という部分が、以前からずっと不思議に思っていました。というのは、一番最初に出てくる『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』という部分にしても、その次の『我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず』という部分にしても、父なる神がどういうお方であるのか、子なる神がどういうお方であるのかという説明があります。
父なる神は天地万物を造られたお方であって、そういう全能者を信じているという説明があります。同じように子なる神についても、子とは創造者である父なる神の独り子であって、続く部分では誕生から十字架、復活、昇天、そして生きた者と死んだ者とをやがて裁くために再臨されるお方だという説明がなされます。
ところが、聖霊については何の説明もなく、ただ『我は聖霊を信ず』とだけあって、すぐに次の話題…教会や聖徒の交わりの話題に移ってしまいます。
『聖霊を信ず』という部分に関しては、何の説明もないほど明らかということなのでしょうか。それとも、この使徒信条が出来上がったときにはまだ聖霊についてはそれほど明らかではなかったので、とりあえず『聖霊を信ず』とだけしておいたということなのでしょうか。
そのあたりのことについて教えていただければ嬉しく思います。よろしくお願いします。」

ヤスさん、メールありがとうございました。教会によっては礼拝の時に毎週必ずこの使徒信条を告白する教会もあるかと思います。わたしが礼拝を守っている教会では、月の最初の主の日の礼拝には必ず使徒信条を告白しています。もう、ずっと長いこと習慣のようにそうして来ましたので、ヤスさんが気づかれたようなことを考えたこともありませんでした。そう言われてみれば、なるほど、聖霊に関しては何の説明もありません。というよりも、前半の部分の詳しさに比べて、後半部分は項目だけを並べて急ぎ足で駆け抜けているような感じさえします。
ヤスさんのお便りを読ませていただきながら、改めてそのことに気がつかせていただくことができました。そのことをまずヤスさんに感謝したいと思います。
それにしても、自分が何故そのことをあまり疑問に感じなかったのかと振り返ってみると、それにはそれなりの理由があったと思います。
わたし自身、教会へ通い始めて間もなく、洗礼を受けたいと願うようになって、すぐにも聖書と教理についての学び会を開いていただきました。その学び会の中で、使徒信条をベースにキリスト教が何を信じているのかということをかなり詳しく教えていただきました。それで使徒信条を礼拝の中でみんなと一緒に唱えるときに、一つ一つの項目について、学んだことを繰り返し思い出しながら、使徒信条の背後に教えられていることがらを自分なりに理解して、納得していたのだと思います。ですから、「我は聖霊を信ず」という短い言葉であっても、それほどその言葉の短さを特に意識もしなかったのでしょう。

しかし、今思うとあの時学んだ事柄は、使徒信条そのものの学びというよりは、使徒信条から始まって宗教改革の時代に至るまで、教会が積み上げてきた教理の理解を体系的に学んだといった方がよさそうです。ですから、見方によっては、使徒信条がシンプルに告白してきたもの以上の事柄を加えながら学んだということになるのだと思います。

そこで改めて、ヤスさんのご質問について考えてみると、「我は聖霊を信ず」という言葉は何の説明をも必要としないほど当時の人々には明瞭な教理であったのか、
それとも、その当時は聖霊についてそれほどたくさんの言うべきことがまだ明らかにはなっていなかったのか、どちらなのでしょう。

結論を先に言ってしまうと、どちらでもないとわたしは思います。あえて言えば、聖霊についての教理はその時代にはそれほど豊かに論じられてはこなかったのかもしれません。

使徒信条の構成をじっくりと眺めてみると、そもそも四つの区分なのか三つの区分なのか、という問題があるように思います。
その場合、使徒信条が父、子、聖霊の三位一体の神にならって三つの区分から構成されているということは一目瞭然なのですが、最後の部分は新しい四番目の区分に属するのか、それとも聖霊についての区分、つまり三番目の区分に属するのかという問題があるように思います。
もし新たな四番目の区分を考える場合には、父、子、聖霊の三位一体の神についての三つの区分に、教会についての四番目の区分が加えられているということになるのでしょうか。

もっとも、四番目の区分で取り上げられている事柄は、「聖なる公同の教会」や「聖徒の交わり」については、確かに教会についての教えですが、「罪の赦し」「体の甦り」「とこしえの命」については教会論というくくりで捉えることができるでしょうか。
むしろ、「聖なる公同の教会」から「とこしえの命を信ず」に至るまでの一連のことがらを聖霊の働きと関連させて捉えているのではないかと思うのです。もちろん、これはわたしの主観的な読み込みかもしれませんが、そう思うには理由があります。

使徒信条の中に表れている三位一体論は父と子と聖霊の相互の関係を存在論的に扱っているのではありません。そうではなくて救いの歴史との関係の中でそれぞれ、父なる神、子なる神、聖霊なる神の働きが描かれていると考えられるのです。
少なくとも父なる神は万物の造り主として描かれています。また子なる神は人間として生まれ、十字架、復活、再臨を通して罪からの救済を実現するキリストとして描かれています。では、聖霊の働きについては、どういう告白がなされているのかと考える時に、先ほど四番目のくくりの中に入れようとした事柄が、すべて聖霊の働きと関連させて捉えることができるのではないかと思うのです。

つまり、聖霊の働きというのは、キリストが現実に成し遂げてくださった救いの御業を具体的に人間に適用してくださる働きです。客観的に救いに必要な事柄かキリストによって成し遂げられたとしても、人間がそれを信じ、その信仰によって義とされ、神の子とされ、聖なる者とされ、キリストに結び付けられて救いの完成にまでいたるのは、聖霊なる神の働きがあればこそだからです。キリストを信じる者の集まり、つまり聖なる公同の教会も聖徒の交わりも具体的な聖霊の働きと結びつけて捉えることができることなのです。

ですから、使徒信条の「我は聖霊を信ず」という言葉は何の説明もないどころか、むしろそれ以下に続く言葉が聖霊とはどんな働きをしてくださるお方であるのか、丁寧に語られているのです。