2008年9月10日(水)天国行きの切符をゆずれますか? ハンドルネーム・tadaさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週もハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「『隣人を自分のように愛しなさい』とイエス様は言われています。あなたは、そのために、天国行きの『切符』を手放せますか? 死んで神の審判を受けるとき、あなたの先に審判を受けた人が地獄行きを、宣告された場合、あなたは、『私がこの方の代わりに、地獄へ行きます。』と言えますか? キリスト者の究極の目的は、『天国での永遠の命』でしょう。それを捨てることができますか?」

tadaさん、お便りありがとうございました。お便りを読ませていただきながら、いろいろなことが頭を駆け巡りました。いきなり最後の審判の場面を想定して、その場面で隣人愛の掟をクリスチャンとしてどう果たせるのか、正直のところ、わたしにはそんな問題提起は思いもつきませんでした。
というのも、今でさえ目の前の人たちに、どう隣人愛を実践できるかということで心がいっぱいの毎日なので、最後の審判の時に隣人愛をどうしようかという問題は、頭の中をかすめることもありませんでした。今出会っている人たち、今関わっている人たちのこと以上に、その時出会うかもしれない人たちのことを今から心配しなければならないというのは、わたしにはあまり実践的ではないように思われます。

しかし、あくまでも論理の上での話ということであれば、いくつかのことが言えると思います。

先ず初めに思ったことは、果たして、最後の審判の席で、天国行きの『切符』を譲るようなチャンスがあるのだろうか、ということです。tadaさんの描く最後の審判の様子によれば、順番に裁判が行なわれて、しかも、前の人の審理を後ろの人が聞いていることが前提です。さらに、その場合、後ろの人は自分が天国行きの切符を確実に持っているということが明らかでなければなりません。声はかけてみたものの、自分が手にしている切符が有効でなければお話になりません。

実際、最後の審判がどのような形でなされるのかは定かではありませんが、マタイ福音書の25章31節以下に記されるキリストのたとえ話では、救われる者とそうでない者とが、羊と山羊をより分けるように左右に分けられ、裁きを受けるように描かれています。もし最後の審判の場面がこのとおりであるとすれば、反対側にいる人の誰に自分の『切符』を渡してあげるのでしょうか。ごまんといるかも知れない救われない人たちの中に、天国行きの『切符』を一枚だけ投げ込んだとしたら、みんながお行儀よく譲り合うか、われ先にとその切符に飛びついて、それこそ芥川龍之介の『くもの糸』状態になってしまうかのどちらかでしょう。どっちにしても結局のところ誰の手にもその『切符』は届かないのではないでしょうか。

ではもし仮に、tadaさんが想像するように、天国行きの『切符』を誰か一人に渡せるようなチャンスがあったとしたらどうでしょうか。

そもそも天国行きの『切符』というのは何なのでしょうか。電車の切符と違って、渡せる「もの」それ自体がないことは言うまでもありません。もちろん、聖書にはそういう表現そのものもないのですが、この場合「救いを保証するもの」という意味で天国行きの『切符』という言い方をあえてすることにしたとします。それに近い表現を聖書の中から拾い上げるとすれば、「聖霊の証印」というのがそれにもっとも近いかもしれません(2コリント1:22、エフェソ1:13)。クリスチャンには聖霊の証印が押されているのですから、救いが確実であるといえるのです。
ところで証印というのは証明のために押した印です。そのシールをはがして別のものに貼り付けるというのはそもそも偽装行為ですから、そんなことが許されるのかどうか、そこからして疑問です。
しかし、あえて譲ることができるとして話を進めていくとしても、それでも、まだ問題が残ります。
そもそも、その天国行きの『切符』の代金を誰が支払ったのかという問題です。それは言うまでもなく、私たち自身ではなく、キリストがすべてをわたしたちに代わって支払ってくださったのです。自分で買ったものなら自分で好きなように処分してもよいでしょう。
しかし、神の子イエス・キリストが命と引き換えに手に入れてくださった救いの『切符』を、誰かに譲ることなどできるものなのでしょうか。もちろん、神様がそれを許してくださるならば、それもあるかもしれません。

さて、以上の問題をすべてクリアして、実際天国行きの『切符』を渡せることができるとしたとしましょう。では、隣人愛の名のもとに、わたしはその切符を最後の審判の時に救われない人に渡すかといえば、やはり、その答えはその時になってみないと分からないとしか言いようがありません。いえ、おそらく渡さないような気がします。

なぜなら、天国行きの『切符』は最後の審判が到来するまでのあいだ、人が生きているうちは誰でもただで手に入れることができるものです。イエス・キリストを信じさえすれば人種も年齢も性別も関係なく誰でもいつでも手に入れることができるのです。そのチャンスをあえて拒んだ人が、果たして天国行きの『切符』を欲しがるかどうかまず疑問だからです。救いを欲しがりもしない人に『切符』を渡して何か意味があるのでしょうか。
もし仮に、最後の審判の席上でわたしに『切符』を譲ってくださいと言う人がいたとしたら、わたしは神様に切符をもう一枚下さるようにとお願いします。その願いが受けいれられるならば、二人とも救われるわけです。しかし、その願いが受けいれられないとすれば、わたしのもっている切符を譲ったとしても、神はその切符を有効とは認めてくださらないでしょう。

さて、以上述べてきたことは、つまらない議論といえばそれまでのことです。おそらく、ラジオをお聴きの多くの方はそう感じたに違いありません。こんなことを考えている暇があったら、今目の前にいる人、今自分と関わっている人たちの救いと幸せを願い求め、その実現の道を考えた方がよほどためになるはずです。今なら何枚でも切符を配ることができるのですから…。

さて、tadaさんが、どういう思いからこの質問を尋ねてくださったのかわたしにはわかりませんが、もし、最後の審判の時に予想される事態を今から想定して心配なさっているのでしたら、どうぞ、そのような心配は無用なものと思ってください。
必要な判断はその時に神様が与えてくださるはずです。今は両方の答えがそれぞれあったとしても、あえて、どちらかに決すべき時ではないのです。それよりも、今生きている人たちの救いのためにできること、そのために労することの方が大切だと思います。