2008年8月20日(水)ユテコの話は何のために? ハンドルネーム・眠れる万年青年さん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・眠れる万年青年さん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも番組を楽しく聴かせていただいております。早速ですがわたしの疑問にお答えいただければ嬉しく思います。
これは若い頃からの疑問なのですが、使徒行伝の中にユテコという青年の話が出てきます。先生もよくご存知だと思いますが、この人はパウロが説教をしている礼拝の最中に居眠りをして窓辺から落ちてしまった青年です。
幸いパウロによって息を吹き返し、また何事もなかったように集会は続けられます。
そこで疑問なのですが、この逸話はいったい何の意図があってここに書きとめられたのでしょうか。礼拝中に居眠りすることへの戒めでしょうか。それとも他に何か特別な意図があって後世にユテコのことを伝えたかったのでしょうか。このことがずっと疑問として今まで心に引っかかっています。どうぞよろしくお願いします。」

眠れる万年青年さん、お便りありがとうございました。なるほどユテコの話は読めば読むほど不思議な話です。そんなに長い箇所ではありませんから、番組をお聴きの方で、この話を知らない方のために、全文朗読したいと思います。新共同訳の使徒言行録20章7節から12節までです。新共同訳では「ユテコ」が「エウティコ」と呼ばれています。それではお読みします。

週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。

まず、この箇所に至るまでのストーリーですが、パウロの三回目の伝道旅行が終わりに近づき、いよいよシリア州へ向かって戻ろうしている場面です。
そもそも第三回の伝道旅行ではエフェソでの二年間にわたる伝道がメインでした。エフェソというのは現在のトルコの西端にある町です。二年間にわたる伝道のあと、ギリシアへ渡って三ヶ月ほど過ごしますが、ギリシアからは直接地中海を船で渡ってシリア州に戻る予定でした。しかし、ユダヤ人の陰謀を耳にして、パウロたちは陸路を通ってフィリピに向かいます。そしてマケドニア州のフィリピから船で小アジアに渡り、きょうのストーリーの舞台となるトロアスにやってきたのです。人間的な言い方ですが、ギリシアでユダヤ人たちの陰謀を耳にしなければ、パウロ一行はトロアスに立ち寄ることもなかったでしょう。そして、トロアスに立ち寄ることがなければエウティコが窓から落ちることもなかったでしょう。そう考えてみると、神様の目から見ればエウティコの事件は起るべくして起ったといっても良いかもしれません。
それにしても、一体なんのためにそんなことが起ったのでしょう。礼拝中に居眠りした若者を悪い見本として後の世に紹介するためだったのでしょうか。エウティコにとっては後にも先にもここにしか自分の名前が出てきませんから、不名誉な事件としてここに記されているのだとすれば、名誉を挽回するチャンスがありません。そもそもこの事件は不名誉な事件だったのでしょうか。

さて、少し余談になりますが、新約聖書の中で日曜日の集会について記されているのは、実はこの箇所が唯一の箇所です。今でこそ日曜日は「主の日」と呼ばれ、朝から礼拝の日と決まっていますが、使徒言行録ではまだこの日を「主の日」とは呼んでいません。ユダヤ人の習慣に従って「週の最初の日」という呼び方でこの日を呼んでいます。もちろん、呼び方が定まっていなかったから集会も不定期だったとはいえないでしょう。ちなみにコリントへの信徒への手紙一の16章2節にはエルサレムの教会のために集められる献金について「週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」と言われていますから、週の初めの日毎に集会がもたれていたのでしょう。
ところで、今のわたしたちからすると、当然週の最初の日、つまり日曜日は休みの日と決まっています。その感覚できょうの箇所を読むと、休みの日にみんなが礼拝に集まって、朝から晩までパウロの話に耳を傾けていたような印象を受けるかもしれません。
しかし、ローマ帝国が日曜日を休日と定めたのはずっと後のことで、321年にコンスタンティヌス大帝が日曜日を休日と定めるまでは休みの日ではありませんでした。そのことを頭の片隅に置いてきょうの箇所をもう一度読み直してみると、この日曜日に集会がなぜ夜もたれたのかということが理解できると思います。日中働いている人たちにとっては夜しか集まることができなかったのです。

コリントの信徒への手紙一の11章21節以下にコリント教会での集会の混乱ぶりが記されている箇所があります。おそらく主の晩餐に先立ってもたれる愛餐会のことをパウロは言っているのだと思いますが、先に来た裕福な者たちが勝手に食事をはじめてしまい、後から来た貧しい者たちが空腹のままだというのです。休みでもないこの日に皆が集会に同時に来ることがどれほど困難なことであるのかということが、このエピソードから伺われます。当然裕福な者は家のことを誰かに任せてさっさと集会に集うことができたでしょう。僕たちは勝手に家を出るわけにはいきません。すべての仕事をやり終えてから、やっとのことで集会に出て来たに違いありません。
もちろん、トロアスの教会はコリントの教会のように混乱していたわけではないでしょうから、先に集まってきた者たちが勝手に食事をしてしまったというわけではありません。しかし、それにしてもエウティコが何故パウロに近い場所ではなくて、窓辺にしか場所を確保することができなかったのかは、容易に想像することができます。
エウティコは20章9節では「ネアニア」つまり「若者」と紹介されていますが、12節では「パイス」つまり「僕」と呼ばれています。もちろんパイスには「若者」という意味もありますが、エウティコは誰かのもとで働く下僕だったのでしょう。
もしそうだとすれば、誰がエウティコのことを不真面目な青年ということができるでしょうか。むしろ、日曜日の礼拝に出席するために、家の主人から言いつけられたことをすべて成し遂げて、やっとのことで礼拝にやってきたのです。体に疲れを覚えながらも、それでも礼拝に集いたいと思ったのでしょう。窓辺にしか場所が取れずに、聞き取りがたい声を耳にしながらも、それでもパウロの話に熱心に聞き入ろうとしていたに違いありません。
このエウティコの話の結びは「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と記されます。エウティコへ非難や叱責の言葉はどこにも見られません。それもそのはずでしょう。彼は不真面目どころか、息を吹き返すのに値する真面目な青年だったのです。このエウティコに対する神の憐みと受けた慰めをこそ、使徒言行録は後世に伝えたかったのでしょう。