2008年7月30日(水)どのヤコブですか? 神奈川県 M・Tさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週神奈川県にお住まいのM・Tさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも番組を聴いています。
私事ですが、最近はずっと使徒言行録を読みながら、初代教会の様子を学んでいます。今まであまりじっくりと読んだことがなかったので、今回は『なるほど』とか『へぇ、そうだったんだ』などと一人で合点しながらゆっくりと読み進んでいます。
さて、質問なのですが、使徒言行録の15章にヤコブという人が登場して、みんなの意見を最終的に纏め上げます。この人の意見は鶴の一声といってもいいくらいの影響力がある意見です。
確か使徒言行録の12章では十二使徒の一人、ヨハネの兄弟ヤコブはヘロデ王によって殺害されていますから、このヤコブというのは使徒ではないヤコブのようです。使徒でもないのにそれほど有力なヤコブという人物は、いったいどんな人だったのでしょうか。教えていただけたら嬉しく思います。よろしくお願いします。」

M・Tさん、お便りありがとうございました。今、新約聖書の使徒言行録を読んでいらっしゃるとのことですが、是非、最後までゆっくり味わって読んでください。もしお時間があれば、使徒言行録で出てくる地名や人名がタイトルになっているパウロの手紙もあわせて読んでみると、きっと新たな発見がたくさんあると思います。

さて、さっそくご質問の件ですが、旧約聖書でヤコブと言えばすぐに思い出されるのはイサクの息子で、双子の兄弟エサウとヤコブのヤコブです。後にイスラエル十二部族の父となるヤコブです。
新約聖書でヤコブといえば、福音書から順番に読んだ人にとっては、キリストの十二弟子の一人で、漁師をしていたゼベダイの子ヤコブ、ヨハネの兄弟のヤコブを真っ先に思い浮かべるのではないかと思います。ちなみにこの二人にイエス・キリストは「ボアネルゲ」(雷の子)というあだ名をつけました(マルコ3:17)。十二弟子の一人ヤコブが弟子の中でも有力であったことは、しばしば、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人がキリストから特別な扱いを受けていることからも推測できると思います(マルコ5:37、9:2、14:33)。
あるいは新約聖書の目次をご覧になった方にとってはヤコブといえば『ヤコブの手紙』のヤコブの名前を思い浮かべるのではないかと思います。残念なことにヤコブの手紙の中にはヤコブを名乗る筆者が誰であるのかという詳しい情報は記されていません。教会の伝承ではイエスの兄弟ヤコブ(マルコ6:3)ではないかと考えられています。
実は新約聖書の中に登場するヤコブはこの他にもまだ少なくとも三、四人います。やはり十二弟子の一人で、アルファイの子と呼ばれるヤコブ(マルコ3:18、使徒1:13)がその一人です。彼はイエスが十字架にかけられたとき見守っていた婦人たちの一人であるマリアを母とする小ヤコブと同一人物ではないかと考えられています(マルコ15:40)。あるいはイエスの父であるヨセフの父もヤコブでした(マタイ1:16)。またルカによる福音書では十二使徒のユダの父親の名前もヤコブでした(ルカ6:16、使徒1:13)。
ところで、M・Tさんからのお便りにもありましたように、十二弟子の一人であったゼベダイの子ヤコブはエルサレムでの使徒会議が開かれた時(使徒15章)にはすでに殉教しています(使徒12:1-2)。ですから、使徒言行録15章に登場するヤコブは十二使徒の一人、ゼベダイの子ヤコブであるはずがありません。
ついでに、イエスの祖父であったヤコブと十二使徒ユダの父であったヤコブも候補からはずしても良いでしょう。なぜなら、この二人は名前が挙がっているだけでほとんど知られていないからです。
そうすると、残るのは十二使徒の一人アルファイの子ヤコブか、イエスの兄弟ヤコブかということになります。どちらの人物も福音書の中ではただ名前が挙がっているだけですから、福音書だけからは判断できません。
もちろん、使徒言行録の中にはそれ以上のヒントはありません。ただ、使徒言行録15章13節に出てくるヤコブは、同じ使徒言行録12章17節や21章18節に出て来るヤコブと同一人物と考えてよいのではないかと思います。

さて、先ほども言いましたが、アルファイの子ヤコブもイエスの兄弟ヤコブも、福音書を読むかぎりでは名前が挙がっているだけでほとんど何も知られてはいません。もっとも、アルファイの子ヤコブの方がイエスの十二弟子の一人であるという点では、イエスの兄弟ヤコブよりは可能性が高そうです。
しかし、パウロの手紙を読むと、イエスの兄弟であるヤコブの方がより高い可能性があるように思われます。
具体的にはガラテヤの信徒への手紙1章19節で、パウロは回心後しばらくしてからエルサレムにのぼりペトロのほか主の兄弟、つまりイエスの兄弟ヤコブに会ったと記しています。同じ手紙の2章9節には「柱と目される主だった人々」の中にヤコブとケファとヨハネの三名を挙げています。単に「ヤコブ」とだけ記されていますが、1章19節の「主の兄弟ヤコブ」と同一人物と考えるのが最も自然な読み方でしょう。
このガラテヤの信徒への手紙で重要なのは、挙げられている名前の順番です。パウロは柱と目される主だった人物を挙げるときにヤコブの名前を筆頭に挙げています。
このことは、使徒言行録15章の使徒会議で果たしているヤコブの重要な役割や、また使徒言行録21章でパウロがエルサレムでヤコブを訪ねたことなどと考え合わせると、エルサレムのヤコブと言えば主の兄弟のヤコブ、柱と目される主だった人物の筆頭と考えることができるのではないかと思います。
さらにガラテヤの信徒への手紙の中に描かれる主だった人物たちは、割礼を推進する人たちではありませんし、むしろ異邦人伝道を神から託された伝道と受け止めている人たちです。そこに描かれている姿は使徒言行録15章が描いているヤコブの姿と非常によく似ています。ガラテヤの信徒への手紙2章に描かれていることが使徒言行録の15章で描かれている使徒会議と同じ出来事なのかは別として、両者に描かれているヤコブが同一人物であることはほぼ間違いないと考えてよいでしょう。
確かに使徒言行録には「主の兄弟ヤコブ」という言葉そのものは出てきませんが、主の兄弟やイエスの母マリアたちが残ったイエスの弟子たちと共に熱心に祈っている様子が記されています(使徒1:13)。ですから、使徒言行録が「イエスの兄弟ヤコブ」という言葉を使わないのは、それがあまりにも自明のことだったからではないかと思われます。