2008年7月23日(水)厄年について ハンドルネーム・あいさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームあいさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「信仰と健康について日ごろ思うところがあり、お便りいたしました。
わたしは世間で言うと大厄を迎える年齢です。ここのところ周りの友人たちも厄除けのために神社にお参りに行ったという話をよく耳にします。
厄年などと気にし始めると、自分の身に起る何もかもがマイナスのように思えてくるので、自分としてはあまり気にしないように過ごすつもりでいます。特に厄除けをしてもらうということもしません。クリスチャンなのでそれは当然と言えば当然のことなのですが…。
しかし、厄年は健康の節目となる年なので、まったくの迷信ではないという話も聞いたことがあります。もしそうであれば、健康には気をつけたいと思います。
そこで、ちょっと思ったのですが、健康に気をつけるのは日々の生活の中でいろいろ節制したり、規則正しく生活ができるように工夫したり、食事や睡眠に気を使うことが大切なのは言うまでもありません。しかし、クリスチャンとして健康のことで神様に祈るということもとても大切なことだと思っています。
そうすると、その思いと言うのは、結局は厄年を気にして厄祓いをしてもらうのと根本は変わらないように思うのです。
うまくいえませんが、厄年を気にして厄祓いに行く友人の話しを聞いて、『そこまでしなくても良いのに』と心の中で思う一方で、しかし、宗教は違うものの、自分も神様に健康を祈るのだから、やっていることは同じかな、とちょっと複雑な気持ちになります。
こういうことについてどう考えたらよいのか、よろしかったら教えてください。」
あいさん、お便りありがとうございました。もともと厄年というのは古代中国の易学から発展した陰陽道(おんようどう)に由来するものだと言われています。男の本厄は数えで25歳、42歳、61歳、女性の本厄は19歳、33歳、37歳といわれています。なぜそうなのかは詳しく調べたことはありませんが、その中でも、男性の42歳と女性の33歳はもっとも災難が降りかかる事が多いので大厄などと呼ばれています。あいさんのお友だちも大厄の年を迎えて厄除けや厄祓いに神社仏閣にお参りに行ったということなのですね。
さて、厄年を迎える人は人類が存続しつづける限り、毎年ある一定の人たちが必ずその年齢を迎えるわけです。とすれば、誰かしらに災いが降りかからない年はないと言うことになるわけです。果たしてそれが、統計的に見て、ある一定の年齢を迎える人にだけ起るとすると、厄年もまんざら迷信でもないということになるのでしょう。わたし自身はそういう統計をとったことがありませんが、自分の回りを考えてみて、年齢と災厄との関係はそれほど顕著ではないように思います。それに、健康と年齢と言うことでしたら、生育環境や栄養状態によって随分変わってくるのではないかと思います。単なる統計学の問題でしたら、一度統計をとってみればそれはそれで面白いかもしれません。わたしの直感的な観察に反して、案外当っているという結果になるのかも知れません。
けれども、問題は単なる統計の問題ではないことは明らかです。ある法則性が明らかになったとしても、その事態を回避するためにどういう手段を使うのかとなると、その使う手段によっては宗教的な問題ともなるからです。
一般的に言って、災いというものがいつどいういうときに自分の身に降りかかってくるのかはわからないものと考えられています。それがわかれば、それを回避する方法も見つけられる可能性がでてくるはずです。しかし、わからないからこそ、何とかその法則性を見つけ出して、対処しようと考えるのは当然の成り行きです。
また、わからないからといって、四六時中いつも注意して、緊張状態を保っていることはほとんど不可能なことです。たとえ、いつも緊張して注意していることができたとしても、それでは一生涯ホッとする時間などもつことが出来ません。そういう意味ではある年齢に達した時だけ特別な注意を喚起すればよいのだと言う考えは、そこに合理的な根拠があるかどうかは別として上手な逃れ道であるかもしれません。
もっとも、科学の進歩のお陰で、どういうときに何に注意をすべきなのか、という知識が増すにつれて、いつも注意していなければならないという状態からわたしたちはずっと解放されています。たとえば、川が増水して氾濫するかもしれないという恐怖は、川の上流の天気予報さえしっかりと確かめておけば、いつも心配しなければならない問題ではなくなっています。あるいは塩分の取りすぎが、血圧を上げると言うことを知っていれば、血圧の高い人は塩分を控えて、自分の健康状態をよりよく保つことができるでしょう。
しかし、そうはいっても不慮の災いが完全になくなっていないというのも現状です。そういう不慮の災いから逃れたい、守られたいと願うのは誰もが願うことです。この思いを否定することはできません。
そういう意味では、厄除けや厄祓いの根底にあるものは人類に共通した思いといっても良いでしょう。
さて、先ほども言いましたが、どんなときにどんな災いが起りやすいかということは、科学や経験からさまざまなものが解明されてきていますから、危険の回避という点では、これからも科学的な解明が進められていくことは間違いありません。
しかし、それでもなお解決できない漠然とした不安をどうやって取り除いていくのか、そこが問題なのだと思います。
あいさんは「しかし、宗教は違うものの、自分も神様に健康を祈るのだから、やっていることは同じかな、とちょっと複雑な気持ちになります」と書いてくださいました。先ほども言いましたが、人間の根本にある不慮の災いから逃れたいという思いは、誰しも変わることがないのですから、そういう気持ちを共有できるということは大切なことだと思います。
もちろん、あいさんはクリスチャンのようですから、災いからのがれるために厄除けや厄祓いに走るということはないことと思います。人間の手を越えた事柄に対しては、ただ、聖書の神に助けを求めるということ以外にはクリスチャンとしてできることはありません。そして、あいさんはそのとおりなさっているのだと思います。
しかし、自分とは異なる宗教を持つ人たちに対しては、相手がそれを望んでいない限り、あえて反論を挑むこともないでしょう。むしろ、わたしたちに対して不意に襲ってくる様々な災難に対して共通の理解を深めていくことで、もっと深い話ができるようになるのではないかと思います。