2008年7月9日(水)信仰とは何ですか 長崎県 T・Mさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長崎県にお住まいのT・Mさん、女性の方からのご質問です。長いお便りですので、二回に分けてご紹介したいと思います。

「キリスト教の書物を読んでいて感じることなのですが、どうしてキリスト教では『信仰』を重視するのでしょうか。信仰と言うのはあやふやでハッキリしません。信じつつ疑い、疑いつつ信じ、何か悪いことがあれば、いっぺんに吹き飛んでしまいます。信仰を失い、神様が分からなくなって伝道できなくなることがあります。
神様を否定して自分が一番偉いと言っている悪意のある人たちに伝道したいのですが、笑われるだけです。本人次第と言われればそれまでですが…(中略)
信仰とは何でしょうか。信仰があるのかないのかどうやってわかるのでしょうか。信仰の冒険と言いますが、そんな勇気はありません。信仰よりも行動が重要だと思えますがいかがでしょうか。
信仰について、悪意ある人との付き合いについてアドバイスお願いします」

T・Mさん、お便りありがとうございました。長いお便りでしたので、いただいたお便りを二つに分けさせていただきました。来週もう一度取り上げさせていただきます。全部で四つのご質問でしたが、四つともT・Mさんの中では一つの関連した内容なのだと思います。時間の関係で二つに分けて取り上げてしまい申し訳ありません。

さて、いただいたご質問は、ただ信仰についての知的な興味から出てきたご質問ではないようです。伝道というきわめて実践的な事柄から出てきたものと受け止めさせていただきました。
わたしたちの周りにいる人たちは、必ずしもキリスト教に対して理解のある人たちばかりではありません。信仰について語り始めれば、たちまち反論が返ってきます。
確かに信仰的な事柄には証明できないことがたくさんあります。数学のように答えが一つとは限りません。あるいは科学的な実験のように繰り返し実験してその正しさを確かめることもできません。
たとえば聖書の神は三位一体の神であるといわれています。三であると同時に一であるような存在を数学的にどう説明するのでしょうか。あるいは神が天地万物を無から創造されたことをどうやって実験で確かめることができるでしょうか。
数学的な真理や科学的な真理だけがすべてであるような人にとっては、信仰ほどあやふやなものはないということになるのでしょう。そして、信じている本人も、正直であればあるほど、自分を絶対化したりはしませんから、信じつつ疑い、疑いつつ信じていると言うのが嘘偽りのない自分の姿なのでしょう。
そして、そういう信仰者の姿は悪意のある人たちにとってかっこうの物笑いの種です。

さて、信仰とはそもそも何かということを考える時に、一つは何を信じているのか、その内容をさして「信仰」という場合があります。「あなたの信仰は何か。あなたは何を信じているのか」という場合の信仰は、信じている事柄の内容の問題です。それは信仰箇条ということもできます。
例えば「聖書の神は天地万物の創造者である」とか、「イエス・キリストは神の子であって同時に人である」とか、こういった信仰箇条を指して信仰という場合があります。これらは聖書から導き出された事柄なので、何を信じるべきかという信仰の内容については迷いがあったり、あやふやであったりということは通常はありません。重箱の隅をつつくような問題に関しては別として、これらの事柄は文章で書き表すことができるほど明瞭です。
ただし、その内容を受け止めるわたしたちが、迷いがあったりあやふやであったりということはあるでしょう。

ところで信仰箇条に関して、受け止め方には二通りあります。一つは知識として信仰箇条に同意すると言う場合です。具体的な例を挙げると「聖書の神は天地万物の創造者である」という文章が正しい真理であると認めると言うことです。しかしこれだけでは、ただの知識として知っているというだけに留まってしまいます。
信仰箇条の受け止め方のもう一つは、知的に受け止めたことに基づいて、その事柄に信頼するという場合です。先ほどの例で言えば「聖書の神は天地万物の創造者である」ということを知っているばかりではなく、その天地万物の創造者を信頼して従っていくということです。
どちらの要素も「信じる」ということにとって欠かすことのできない要素です。知らないものを信じることはできませんし、知っていると言うだけで、信頼して従うことがなければ、信じているとはいえないからです。
つまり、信仰ということを考える時には、まず信仰箇条が何であるかという知識に加えて、それを真理として同意すること、さらにはその真理への同意に基づいて、真理に従うことが信仰には含まれるのです。そしてこれらすべてを含めてキリスト教では「信仰」と呼んでいるのです。

さて、信仰を伝えると言う場合には、ただ何を信じているかと言うことを宣伝することではありません。そこには当然、聞いた人がそれを真理であると認めて、それに従っていくことが期待されています。
聖書が何を教えているのか、それを伝えるだけならばそれほど難しくはないでしょう。それだけであるならば、キリスト教概論や聖書概論の授業で事足りるはずです。難しいのは聞いた人がそれを真理であると認めて従ってくるかどうかです。

ここから先が重要な問題ですが、聖書に書かれてある事柄が真理であるか否か、という問題は科学的な実験や、数学的な計算で導き出せるような問題ではありません。
それは丁度裁判の席での証言を信憑性のあるものとして受け取るかどうかという問題に似ています。
あるいは、聖書の真理を受け入れるということは、人間の愛を受け入れることと似ています。このことも結局はその愛を信じるかどうかと言うことに関わってくるからです。

こうした問題はつまるところ受け取る相手の問題でもあるのです。信じる者にとってできることは、倦まずたゆまず聖書の信憑性と真実性を繰り返し述べ伝えることです。

聖書自身が語っている「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(2テモテ4:02)とはまさにそのとおりであると思います。どうぞ、自分自身の弱さに失望しないで、聖書が真理として語っていることを信じつづけ、語りつづけてください。