2008年7月2日(水)能力主義と格差社会について H・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はH・Kさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、はじめまして。きょうは先生にご質問がありお便りさせていただきました。
この何年か能力主義という言葉が使われだして、何でもかんでも能力と結び付けられて、働く人がみな戦々恐々としているように思います。そして、また能力主義の結果、格差社会にもなったと言われています。
わたしが今まで社会に対してそれほど関心を持たなかったので気がつかなかっただけかもしれませんが、それにしても、貧富の格差は広がっているように実感します。
お金持ちはますますお金を稼ぐ機会に恵まれ、いったん普通以下に生活が落ちてしまうとなかなかそこから這い上がれないような気がしています。
今年30代半ばになりますが、自分の友だちを見ていてもいまだにバイト生活だったり、派遣社員だったりする人の数が多いです。それと関係があるのかどうか分かりませんが、結婚年齢もあがってまだ独身だったり、結婚しても離婚している人の数が多いように思います。
自分の周りだけを見て世の中の一般的な動向だと決め付けてしまうのは短絡的かもしれませんが、しかし、統計をとるまでもなく、肌で能力主義の社会とその結果である格差社会の現実を感じています。
そこで、質問なのですが、キリスト教の根本的な考え方では、能力主義や格差社会というものをどのように受け止めているのでしょうか。それはあるべき人間社会の姿なのでしょうか、とれとも、改めるべき悪弊なのでしょうか。
キリスト教の立場を教えていただけると嬉しいです。よろしくおねがいします。」
H・Kさん、お便りありがとうございました。ちょっと前まで「能力主義」という言葉をよく耳にしましたが、最近では「能力主義」という言葉以上に「格差社会」という言葉を耳にするようになったように思います。能力主義が結果として格差社会を生み出すことは、論理的に考えてみれば誰もが分かることなのですが、今になってこの「格差社会」のことがよく取り上げられるようになったのは、「格差社会」のもつ負の面が現実的になってきているからではないかと思います。
能力主義が導入される時は、もちろん、マイナス面が予想されなかったわけではないはずです。しかし、能力主義によって誰もが今以上に自分の能力を買われて、その能力に見合った収入を上げることができる、という能力主義のバラ色の部分だけが強調されすぎて、能力主義が経営者にとっても労働者にとってもとてもよいものだというイメージが先行していたように思います。
ところが蓋を開けてみると、そんなバラ色一色ではなく、様々な弊害も見えて来ました。確かに能力のある者にとっては、これほどありがたい仕組みはありません。しかし、能力がないとみなされた者には、明るい将来の展望など描くことさえ難しくなる仕組みなのです。また、能力のある者でさえ、いつ能力のある者の座から転げ落ちるかもしれないという不安と緊張感から落ち着いて働くことができないという弊害もあります。さらには、有り余る能力を持っている人にとっては、勤勉に働くよりも手抜きで仕事をこなすという弊害さえもあることが最近では知られてきているようです。
さて、この「能力主義」と「格差社会」ですが、キリスト教の視点から考えるとどうなるのでしょうか。
まず「能力主義」ということばそのものは聖書にはありませんが、聖書は一人一人が違った才能をもった存在であることを前提に、教会や社会を考えています。たとえば、旧約聖書では幕屋を造るときに特別に才能のあるベツァルエルとオホリアブを用いて幕や建設に必要な工芸を担当させました(出エジプト記35:30-35)。新約聖書では教会を構成する一人一人が神から与えられた賜物に従って奉仕をするようにと描かれています(1コリント12章)。すべての人が同じ働きに就くのではなく、それぞれが才能に応じた働きを与えられているのです。
この考え方は教会内のことばかりではなく、すべての職業もまた与えられた才能に応じていると考えることができます。
そういう意味では能力主義、賜物主義は聖書の考え方に合致しているといえるでしょう。しかし、注意しなければならない点があります。
まず第一に、聖書がいう「能力」や「賜物」は、究極的には神が与えてくださったものです。神は同じものを同じ量だけではなく、違うものを違った量、各人に与えてくださっているのです(マタイ25:14-30)。もちろん、本人の努力の結果、後天的に習得した才能もあるでしょうが、そのことも含めて神からの賜物と考えられています。
つまり、誰一人として与えられた賜物を他人に対して誇ることはできないのです。むしろ、感謝してそれを豊に用いることが求められているのです。
ということは、基本的には無償で与えられたこの賜物は、神と隣人のために用いるべきなのです。もちろん、職業として与えられた賜物を用いる時は、それに対するふさわしい報酬をもらうことを神は禁じてはいません。むしろ働く者がふさわしい報酬を手にすることは、聖書の認めているところです(1テモテ5:18)。そして、賜物の違いが報酬の違いとなってあらわれることも聖書は否定しません。
ただし、その結果生じた格差をどのように埋め合わせるのか、これは別の原理によって解決することを聖書は望んでいるのです。才能や能力それ自体が神から与えられたものですから、その結果生じた余分の富は神と隣人とに還元されるべきです。能力主義である以上は格差が生じることは止むを得ませんが、それを放置することは聖書の教えである隣人愛に適わないのです。
第二に注意しなければならないことは、発揮された能力に対する報酬も、またその報酬に違いが生じることも当然のこととしても、そこにはしばしば人間の罪の原理が絡む場合があると言うことです。人間の罪深さは人間の罪深い要求を満たしてくれる才能により高い報酬を与えようとする場合があります。したがってある能力が高く買われることを手放しでは喜べない場合があることも心に留めておかなければなりません。
第三に、同じ能力を与えられていたとしても、それを発揮できるチャンスは均等ではないとうことも考慮しなければなりません。格差社会は純粋に能力主義の結果だけとはいえないのです。チャンスがなけれ能力は生かされません。チャンスを掴むことも含めて能力のうちという場合もありますが、しかし、本人の落ち度や努力とは関係ないところでチャンスをつかめないと言うこともあるのです。
以上の三つの点を考えると、能力主義の結果生じる格差社会は必ずしも聖書が容認するところではないのです。格差をどのような形でどこまで埋めることが適切であるのかについては、残念ながら聖書にその答えは記されていません。しかし、隣人愛の原理を貫くことは聖書が最も大切なこととして教えているのですから、生じた格差が隣人愛を破るとき、その格差を正していくことは聖書が求めていることであると信じます。