2008年6月18日(水)セカンドチャンス〜慰めはどこに? K・Yさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はK・Yさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しみに聴いています。早速ですが、先日放送されたセカンド・チャンスについてもう少し聞かせていただけたらと思い、メールいたしました。
放送の中でもおっしゃっていましたが、セカンド・チャンス論が出てくる背景は、家族の中で自分ひとりがクリスチャンであるような日本ならではの議論だと言うことは、なるほどそうだと思いました。もちろん、同じような状況はよその国でもあることだと思いますし、世の中の全員がクリスチャンでない限り、どの国、どの時代にいっても同じような議論は繰り返されるのではないかと思いました。
ところで、先生は番組の最後の方で『ただ、イエス・キリストを救い主として信じることがないままで世を去った肉親を持つクリスチャンの心の痛みは何によって慰められるのか、という問題は依然として残るでしょう。しかし、その問題は別の視点からきちんと考えた方が良いように思います』とおっしゃっています。セカンドチャンス論が出てくる背景を考えると、その部分が一番知りたい部分ではないかと思いました。
あの日の番組で先生は全体としてセカンドチャンス論に否定的であるような印象を受けましたが、そうであれば是非とも、クリスチャンにならないまま世を去ってしまった肉親を持つ人は何によって慰めを受けることができるのかをぜひお聞かせいただきたいと思います。よろしくお願いします。」
K・Yさん、お便りありがとうございました。セカンド・チャンスについてのご質問を取り上げさせていただいたのは4月の最後の水曜日でしたので、番組をお聞きの方も印象に残っているのではないかと思います。繰り返しになりますが、セカンド・チャンス論と言うのは、手短に言えば、クリスチャンにならないまま死んでしまった後にも、なお救いのチャンスが用意されていると言うものです。
前回の放送では、いくつかの聖書の箇所を取り上げて、果たして聖書はセカンド・チャンス論を積極的に語っているかどうかを検証してみました。検証の結果はどの箇所もセカンド・チャンス論を展開するには決定的なものではないと言うものでした。
しかし、セカンド・チャンス論が聖書によって明確に教えられてはいないということを指摘するだけで終わるとすれば、もっと重要な問題が依然として未解決のままになってしまいます。K・Yさんがご指摘くださったように、そのことを番組の最後で短く触れただけで前回の放送は終わってしまいました。番組を聴いている方にとってはとても不完全燃焼で中途半端な気持ちにさせられたのではないかと思います。
せっかくK・Yさんがご質問をしてくださったので、きょうはその点についてもう少し取り上げてみたいと思います。つまり、死んだ後に救いの可能性がもはや残っていないとすれば、キリストを信じないで死んだ肉親をもつ家族は、いったい何によって慰められるのかということについて考えてみたいと思います。
さて、キリストを信じることがないままでこの世を去ってしまったらどうなるのか。聖書が一般的に教えていることは、確かに、キリストのほかに救いはないのですから、救いのチャンスはないということになるのだと思います。
しかし、実はそもそもこの問いの立て方自体が問題なのです。確かに教会は色々な方法で、その人に信仰があるかないかを確かめて洗礼を授けます。逆にいえば洗礼を受けた人は信仰のある人だと教会が判断した人です。しかし、教会は全世界の人をもれなく信仰があるかないか断定しているわけではありません。洗礼を受けないで亡くなってしまった場合、ほんとうに信仰を持たないで亡くなったのかどうかは神様だけがご存知のことです。
それを先走って考えて、「この人は地上での信仰のチャンスを生かせなかった」と推定した上で、「死んだ後にチャンスがあるかもしれない」と考え、さらに「そのセカンドチャンスはきっと生かされるだろう」と思って慰めを得るのだとすれば、それは随分と屈折した考えです。
確かに一般的には、教会に一度も来たこともなければ、聖書を一度も読んだこともない人に信仰があるとは思えません。しかし、もし、何らかの方法で福音に触れるチャンスが一度でもあるならば、たとえ洗礼を受けるチャンスがないとしても、その人が死の間際まで信仰を持たないままであったと誰が断定することができるでしょうか。そういうあやふやな推定の上に立って、人の救いについて論じるところに、そもそもの出発の間違いがあるように思います。
セカンド・チャンス論には、救われるチャンスは人間自身の選択に掛かっているという大きな前提があります。生きているうちにそのチャンスを逃した人には、死んだ後にもう一度チャンスが与えられるというものです。もちろん、生きているうちに悔い改めなかった人が、死んでからあとで必ず悔い改めて信仰を持つということを保証するものではありません。不確実なものは不確実なままです。場合によってはサードチャンス論やフォースチャンス論が延々と繰り返されない限り、いえ、結局のところ万人救済論に立たない限りはだれも慰めを得ないということになってしまいます。
しかし、聖書が教える救いの確実さは、人間の側にあるのではありません。根本的には神の側にあることです。結局のところ、この神の正義と愛とを確信しなければ、どんなことも慰めにはならないのです。あるクリスチャンが信仰を持って世を去ったかどうか、あえてそのことを疑う必要はないでしょう。反対に、洗礼を受けるチャンスがなかったある人が信仰を持たないで世を去ったのかどうか、そのことをあえて断定する必要もないでしょう。
人間の手にではなく、神の御手の中にこそ救いの確実さがあるのですから、その神を信じて委ねるところにこそ大きな慰めがあるはずです。だれも神に先走って他人を救われないと断定してはなりません。最後の審判の日まで、それは人の目に隠されているのです。もしかりに、最後の審判の日にその人が救われないことが明らかになったとしても、神はその理由を十分に説明してくださいます。そのときには腑に落ちないことは何一つないはずです。そこには真実と慰めが満ちているはずです。
最後の審判の日がやってくるときまで、神の御手の内にある救いの確かさを信じ、神の愛と正義とを信じて疑わないところにだけ、まことの慰めと平安とがあるのです。