2008年6月11日(水)弟子を変えたものは? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「聖書には不思議な物語がたくさん出てきます。全てが本当がどうか、私が知る術はありません。その中でも、もっとも不思議なのは、弟子たちの行動です。イエスが捕縛され、十字架にかけられるとき、弟子たちは、怖がって逃げていきました。また、イエスの死後も家に引き篭もっていました。しかし突然、弟子たちは変わって、別人のようにイエスを証して殉教していきました。一体どうしてこんなに弟子たちは変わってしまったのでしょうか?」
tadaさん、お便りありがとうございました。おっしゃるとおり、聖書には不思議な話が満ちています。不思議な話といっても、その不思議さには度合いの違いがあるように思います。知られている自然法則では説明がつかないものを一般的には、「奇跡」と呼んでいます。自然法則では説明がつかないのですから、奇跡はほんとうに起ったか起らなかったかを簡単に証明できるようなものではありません。奇跡については、普通は常識では起らないとしか言いようがありません。
奇跡と同じような現象が自然法則の中でも起りえるかどうか…これなら説明のしようがあるかもしれません。
例えばヨシュアがヨルダン川の水を止めて、現われた乾いた地面の上をイスラエルの人々が渡ったという記事は、しばしば、こんな風に説明されます。つまり、たまたまそのとき上流で起った地震のために、崩れ落ちた岩などで川がせき止められたからだ、と。
確かにこの説明は起った現象を自然法則の範囲内で説明することには成功しています。しかし、それではただの自然現象を神の働きと勘違いした民族の話になってしまいます。それではせっかく聖書に語られている神のメッセージを見失ってしまう結果にもなります。
もちろん、自然現象をもちいて不思議なことを起こしたのも神の御手の働きだとして、そこに神の御意志を読み取るということもできるかもしれません。しかし、結局のところ、それが神の御手が関わっているかどうかは、実証できる話ではなく、信仰の領域と言うことになるのだと思います。
さて自然法則を超えた奇跡の話は、不思議な話の中では飛び切り不思議な出来事です。しかし、聖書の中には、普通は起りえないことでも、時と場合によっては起りうるような話も出てきます。もっとも、必ずそうなるということではない点で、やはり不思議な話のカテゴリーに属する話です。
具体的にはtadaさんが挙げてくださった、キリストの弟子たちの行動がそうだと思います。イエス・キリストが十字架に掛けられる前後の弟子たちの行動と態度は、福音書によれば、すっかり怯えて、勇気のかけらもない姿です。
それに対して、その日から50日ほどたったペンテコステの日以降の弟子たちの姿を見ると、どんな困難も恐れない、死さえも怯える事のない弟子たちの姿が描かれています。
そんな態度の違いは人間として絶対にありえないことではありませんから、よほどひねくれて聖書を読まない限り、両方の姿を記す聖書の記事を嘘の話だと退けることはできません。
ただし、その極端に違う弟子たちの姿をどう説明するのかは、いろいろな説明の可能性があるだろうと思います。
例えば、背水の陣になれば、誰だって死や苦痛を恐れてばかりはいられない、という説明も可能です。確かに黙っていればやがてはイエス・キリストと同じように逮捕され、十字架に掛けられるのだとすれば、人間死に物狂いで活路を見出すものだと言えるかもしれません。
もっとも、そうした説明は数ある説明の一つであって、その説明が必ず正しいとは言えません。そればかりか、今の説明では、肝心な点が一個抜け落ちています。
弟子たちには自分の身に及んだ危険を回避するために、キリストの弟子を辞めてしまうという選択肢も可能性としてあったはずです。自分たちの師匠であるイエス・キリストが殺されてしまったのですから、弟子団を解散して、ひっそりと身を潜めて生活を送れば十分に安全な暮らしができたはずです。なぜそうしないで、わざわざ人前に出て行ったのでしょうか。背水の陣でいちかばちかやってみた、そんな軽率な行動のようには思えません。それにそこまで状況の判断を弟子たちが誤っているとも思えません。
ペンテコステの日を前後して、弟子たちの態度や行動が変わった真の理由が他に必ずあったはずです。
そうした場合、弟子たちの心理分析や当時の歴史的な状況分析は、弟子たちの行動を説明する上で興味深い資料を提供してくれるに違いありません。しかし、それよりも前に、聖書自身がどんな説明なりヒントなりを与えてくれているのか、そこから出発するのが順当なのではないかと思います。
イエス・キリストの十字架とペンテコステの日の出来事の間には50日ほどの時間が経過しています。その間に起った決定的な出来事として、聖書はイエス・キリストの復活という出来事を記しています。キリストが墓から甦ったという事件は十字架から3日目の出来事です。そして、聖書が記すところによれば、その日から復活のキリストは何度も弟子たちに出会って、その姿をあらわされたということです。個別的に出会うこともあれば、同時に何人もの人の前で姿をお示しになったこともありました。
この復活のキリストとの出会いこそが、弟子たちのその後の生き方に決定的な転換点をもたらしたと考えるのが、もっとも理に適った説明です。
第一にそれは復活のキリストを証しする弟子たちとの行動とも一致します。復活のキリストとの出会いがなければ、復活について証言する意味がありません。
第二に、復活の出来事は死を超えた命の保証ですから、それは死をも恐れない弟子たちの姿勢と合致しています。
もちろん、復活の出来事自体が普通では考えられない出来事であることは言うまでもありません。ですから弟子たちが証言している「復活のキリストとの出会い」という体験がどんなものであるのかということは、それを体験していないわたしにはこれ以上具体的に述べることはできません。しかし、弟子たちの言葉を借りて言えば、それはまさに死者の中から復活されたキリストが目の前に姿をあらわし、食事もし、会話もしたリアルな出来事だったのです。