2008年6月4日(水)目の前にいる人とは? ハンドルネーム・よしさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームよしさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を感謝して聞いています。
早速ですが、先生にお尋ねしたいことがあります。それはある牧師先生のお話について、いろいろと考えさせられたことについてです。
ある日の説教の中で『地球の裏側にいる遠くの人にではなく、目の前にいる人に愛を示すことが大切です』と言うようなことをおっしゃいました。
確かに会ったこともない見たこともない人のために、たくさんの援助金を送って支援活動をしていると、何か役に立つことをしている気分になれますが、自分の身近にいる困っている人たちに気がつかないということが良くあるような気がします。あるいは、気がついていても、自分は海外支援のための活動に十分捧げているので、身近な人のことは他の人が助けてくれればいいと考えてしまうこともあります。
そういう意味では、遠くの誰かではなく、目の前の人を心から愛することの大切さについて考えさせられました。
そんなことを説教を通して学んだのですが、ふと、『目の前の人とはいったい誰のことだろう』と思いをめぐらせてみました。そう考えながら、そんなことを問うている自分が何だかよきサマリア人のたとえに出てくる律法学者…『それではわたしの隣人とは誰ですか』とイエスに問い掛けた律法学者のようにも感じられてきました。
ずるいと言われるかもしれませんが、わたしは説教をされた牧師先生の意図とは違って、目の前にいる人とは『家族』であると思いました。わたしは父親として夫として、子供たちや妻への責任があると思うのです。先ずはその家族の必要を十分に満たさないで、どうしてその他の人たちのことのことなど考えることができるでしょか。自分は家族に対する責任でさえ十分に果たしているとは思いませんから、そんなわたしがどうして目の前の困った人のことを家族を差し置いて面倒を見ないといけないのでしょうか。
そんなことを考えている自分がこれまたケチで冷血な人間のように思えて自己嫌悪です。
わたしは自分が稼いだお金のうち、先ずはその何%かを神様の御用のために献金し、決められた割合を税金などの差し引かれるものに使い、さらに残ったものの中から目の前の貧困な人たちに何%かを使い、最後にあまったもので家族が幸せに暮らせるように考えるべきなのでしょうか。それとも、最後の二つは順番が逆で先ずは家族優先、その残りで目の前の他の人を助けるべきでしょか。
何だか屁理屈を並べているような質問で自分でも嫌になっていますが、でも真面目に考えれば考えるほど、何をどうすることが大切なのかわからなくなって来ました。
よろしくお願いします。」
よしさん、お便りありがとうございました。一回の説教について、ここまで真剣に受け止めて、いろいろと考えもらえたのだと知ったら、その説教をされた牧師先生もきっと説教をした甲斐があったと感じられるのではないでしょうか。
わたしはその日の説教の全体を聴いたわけではありませんから、的はずれな回答になってしまうかもしれません。しかし、質問のキーポイントとなっている言葉は、よしさんも書いてくださったように、言うのは簡単でも、実行するとなるといろいろと考えさせられることがたくさんです。
遠くの見ず知らずの人のためではなく、目の前にいる人のために何かをなすべきだというのは、ほんとうにそのとおりだと思います。身近にいる人がないがしろにされて、知りもしない人のためにだけお金が使われているという場合には確かに問題かもしれません。けれども、大抵の場合は優先順位に差はあっても同時並行的になされるのが普通ではないかと思います。
大抵の日本の教会はそれほど経済的に余裕があると言うわけではありません。それでも、対外的な援助のために幾らかでも支出をしているがほとんどの教会だと思います。たとえその教会の活動費がそのために削られるとしても、それでもあるパーセンテージは対外的な援助に回っているはずです。
同じように個人の支出を考える時にも、海外か身近なところか、あれかこれか、ではなくて、限られた中でやりくりする知恵こそが大切なのだと思います。もちろん、そのやりくりの根底に愛がなければ意味のないことは言うまでもありません。
ところで、よしさんは「目の前の人」という言葉を耳にしたときにご家族のことを思われたとのことですが、それはそれで素晴らしいことだと思いました。家族を犠牲にした熱心さと言うものが、無条件に評価されるべきものなのか、わたしは疑問です。もちろん、家族が一団となってどんな犠牲を払ってでも誰かのために役に立ちたいと思うのであれば話は別です。しかし、家族が同意していないのに、家族の生活を差し置いてまで誰かの助けにならなければならないかどうか、そこは思慮深くあるべきだと思います。
たとえば、どこかで家族のためにランチを買ってきたとします。そして、子供たちはそのランチを楽しみにしていたとします。ところが、家に帰る途中、明らかに食べるにも困っている人に出会ったとします。もちろん、一食ぐらいその人に差し出したとしても、その場限りのことは分かっています。それでも、ないよりはましだろうと思って、買ってきたものの中から一人前をその人に上げたとします。家に帰ってみると、家族団欒の食事を楽しみにしていたみんなから非難ごうごうです。
この場合ならば、一食足りないランチを家族で分かち合うこともできるわけですし、誰かのためになるということについて家族で話し合うチャンスにもなるかもしれません。
しかし、例えば子供の大学入学金を降り込みに行く途中、駅の地下道で体を横たえているホームレスの人たちに何人も何人も出会って、そのたびにお金を上げていたら、とうとう振り込むはずの入学金がすっかりなくなってしまったとします。新たにお金を調達する時間も経済的な余裕もないとすれば、そういう援助の仕方は本当に正しいのかどうか疑問です。
先ずは自分の責任で支えなければならないのは家族なのですから、家族の必要を優先させたからと言って非難されることはないはずです。
さて、こうしたことは結局は機械的に決めるべきことではありません。たしかに、規則があれば自分の頭で考える必要がないので楽なのは分かります。けれども、隣人への愛と言うものは規則によって型どおりに果たされるものではありません。ケースによって必要と優先順位を考えるところに知恵のある愛が求められているのです。
フィリピの信徒への手紙を書いたパウロは、祈りの中でこう言っています。
「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(1:9-10)
深い知識と洞察力を伴った愛が満ち溢れる時に、初めて本当に重要なことが何であるのかを見分けることができるようになるのです。