2008年5月28日(水)なぜキリスト教だけなのですか ハンドルネーム・やすさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームやすさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「わたしは神の存在そのものを疑ってはいませんが、キリスト教の神だけが本当の神と言えるのか、言えるとしたら何故そう言えるのか、説得力のある答えが欲しいと思っています。
人類と言われるものがたった一人でないように、神と呼ばれる存在がいろいろバラエティーに富んでいたとしてもよいような気がします。あるいはたった一人しかいない神だとしても、そのお方を知る方法はいくつもあってよいのではないかと思います。」

やすさん、メールありがとうございました。クリスチャンはたった一人の神だけが真の神であり、たった一人の神だけを信じているわけですから、きっとやすさんのご質問にはクリスチャンなら誰でも自信をもって答えられるはずです。と、言いたいところなのですが、自信をもってそう信じていたとしても、その信じているいることを誰かに説得できるかどうかというのは別問題だと思います。

やすさんもご存じだと思いますが、どんなことにも大きな前提と言うものがあります。その前提となるものを受け入れていなければ話がまったく進んでいかないものです。
幸いやすさんは「わたしは神の存在そのものを疑ってはいません」とおっしゃっていますから、神が存在することがすでに前提にあるわけです。やすさんは神の存在について、何か万人を説得できる証明方法をお持ちになっていると言うわけではないと思います。もし、神の存在を前提としてではなく、証明によって知ったのだとすれば、神がたった一人なのか複数なのか、それも証明によって知ることができたはずです。

やすさんのご質問を見て「ちょっと待った」と思う人は何人もいるはずです。神が何人いるかということを問う前に、神そのものが存在するかどうかが先に問われるべきではないか、そう考える人たちが大勢いるはずです。

神が存在するかしないかという問題は、信仰の前提です。神がいることが証明されたので信仰を持つわけではありません。神が存在することを前提として受け入れたからこそ、信仰が成り立つのです。
その場合、どのような神が何人存在するのかということも、その信仰の前提に含まれていると考えるのがキリスト教です。

なんだか煙に巻いたような議論に聞こえるかもしれませんが、わたしたちの営みから「前提」というものを取り去ってしまったら何も考えることができなくなってしまいます。たとえば、「自分」という存在が確かにあることを前提にしなければ、考えることそれ自体が意味のないことになってしまいます。あるいは「理性」というものは個々のケースで誤りを犯すことはあっても、最終的には真理を発見できるものであるという前提がなければ、学問そのものが成り立たなくなってしまいます。同じように信仰というものから「神の存在」という前提を取り去ってしまったなら、信仰そのものが成り立たなくなります。また、神は唯一の存在であるという前提を取り去ってしまったなら、キリスト教信仰そのものが成り立たなくなってしまうのです。

がっかりさせてしまうかもしれませんが、わたしにはそのようにしか答えることができません。そして、神が存在し、そのお方が唯一のお方であるという前提は、神の啓示の書である聖書によって教えられ、神がそのようにわたしに働きかけてくださったから理解できたことなのです。そして、そのこともまた大きな前提として受け入れているのです。わたしにはそれ以上のこともそれ以下のことも言うことはできません。

ところで、やすさんのご質問を別の角度から考えてみることもできると思います。きっとやすさんは今までの流れを聞いて、こうおっしゃると思います。

「それならば、『たくさんの神々がいる』という前提もあれば、『唯一の神に対してたくさんの知る方法がある』という前提もあるのではないか」

確かにそのような前提の上に宗教を信じ信仰生活を送っている方たちが大勢いらっしゃる、という事実は否定できません。ただ、わたしは違う前提の上に立っていますから、そのような前提の上に立つことは当然できません。また、そうした異なった前提の上に生活を送っている人たちに、キリスト教を伝道はしますが、説得はできません。わたしがキリスト教を信じたのと同じように、それは神様が説得してくださることだと信じています。

しかし、それはまた、自分とは違う前提に立つ人たちの存在を容認しないという非寛容な立場でもありません。自分と同じ前提に立たないことを理由に、自分と違う前提に立つ人たちに不利益をこうむらせたりということはありません。過去のキリスト教会の歴史の中で、自分たちと前提の異なる人たちに、そのことを理由にキリスト教会が非寛容的な態度を一度も取らなかったかといえば、その事実を完全に否定することはできません。またそうした事実を正当化することができるとも考えていません。

おそらく、今回のような「なぜキリスト教だけなのか」というご質問がたびたび出てくる背景には、信仰的な立場と非寛容な立場とが一体となっていることからくる不快な思いや危惧感があるのではないかと思います。確かに信仰的な事柄に関して妥協することは今後もありえないと断言できます。しかし、そのことと、信仰を理由として違う立場の人間の存在を否定し、不利益をもたらす非寛容な立場とは別の事柄であることをもう一度確認しておきたいと思います。

最後に、ご質問の中に出てきた「たった一人しかいない神だとしても、そのお方を知る方法はいくつもあってよいのではないか」という考え方について、一言だけ触れておきたいと思います。なるほど、この世の中にはたくさんの宗教が存在しますが、それは結局は唯一の神を知るたくさんの方法に過ぎないと見る見方もあるかもしれません。
しかし、それはそれぞれの宗教の存在を重んじているように見えながら、実はどの宗教の独自性をも認めないという、どの宗教に対しても大変失礼な立場のように思います。