2008年5月14日(水)教派は人間の考えたことでは? ハンドルネーム・トラちゃん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・トラちゃん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「こんばんは。ラジオいつも聴いています。
キリスト教のラジオ聴いて十年近くになります。でもイマイチ関心が薄いです。キリスト教にはいろんな宗派がありますがその宗派は後の人間が考えた事だし神様の考えでは無く、人間の決めた事を信じるのはどうだろうかと考えて前へ進みません。何かよいアドバイスがあれば、教えて下さい。」
トラちゃん、メールありがとうございました。十年間もの間、ずっとキリスト教のラジオ番組を聴きつづけてくださって、本当にありがとうございます。イマイチ関心が薄いとおしゃってますが、それでも聴きつづけてくださっていることに驚きました。
きっとそれはトラちゃんが心の中で何かを求めつづけていらっしゃるからだと思います。今はそれがキリスト教なのか、なんなのかはっきりしないということなのですね。
そして、今、特にトラちゃんにとって妨げとなっている問題はキリスト教の教派の問題ということです。余談ですがキリスト教会では「宗派」といわないで「教派」と呼ぶのが慣わしです。同じ宗教内の流派や分派を「宗派」と呼ぶのか「教派」と呼ぶのかは、もちろん大した問題ではありません。
ちなみに英語では「宗派」や「教派」のことをdenominationと言います。元々は「名前を付ける」「命名する」という意味のdenominateという言葉から来ています。「同じようなものだけれども違いを区別して呼ぶ呼び名」ということでしょうか。セクトという言い方もありますが、セクトというのは少し分派主義的な意味合いが含まれます。自分で自分のことをセクトだと言う人は普通いません。主流派の人が分かれていった人たちのグループを軽蔑的な意味をこめてセクトと呼ぶのが一般的です。
ついでにもう一つ、キリスト教会にとっては「異端」という言葉もあります。それぞれの教派は細かな点ではお互いに異なりますが。広い意味ではキリストに連なる一つの肢です。異端というのはキリスト教のようでありながら、実はキリストの教えから完全に逸脱しているものを指して「異端」と呼んでいます。
たとえば、「イエス・キリストは救い主ではあるが、神ではなくただの人にすぎない」と教えるとすれば、それは明らかにキリスト教の本質からはみ出してしまうので異端とみなされます。しかし、生まれたばかりの幼児にも洗礼を授けるべきか、授けるべきではないのか、という見解の違いは、お互いに相手をキリスト教として受け入れることのできないほどの違いではないので、相手のことを異端であるとは普通呼びません。
さて、こうした異端と正統派との区別、さらには正統派の教会の中にも存在する様々な教派、これらのことをどう考えたらよいのか、考えれば考えるほどうんざりしてしまう気持ちも分からなくはありません。そもそも唯一の神様しかいらっしゃらないわけですし、聖書も一つしかないはずです。イエス・キリストも一人です。それこそ聖書にあるように「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4:5-6)
それならば、誰がどう考えてもキリストを頭とした教会も一つであると考えるのは当然です。
ちょっと不思議に思われるかもしれませんが、これだけたくさんの教派がありながら、どんな教派でも信じている共通の信仰箇条というものがあります。使徒信条と呼ばれるものがそれですが、カトリック教会もプロテスタントの諸教派も皆共通してそこに記されている事柄を正しい信仰箇条だと信じ受け入れています。
そして、そこには「聖なる公同の教会を信ず」とあります。つまり、たんくさんの教派があることを理想的だとはキリスト教会の誰も思ってはいないのです。全世界の教会、地上にある教会も、すでに天に召された人たちの教会もすべてを含めて「聖なる公同の教会」がただ一つであることを信じているのです。
それならば、なおのことたくさんの教派があることはキリスト教会の矛盾ではないかと思われるかも知れません。確かに今の状態は矛盾しているかもしれません。しかし、それぞれの教派はすこしでも純粋に「聖なる公同の教会」を実現しようという志から生まれたものです。結果としては、それによっていくつもの教派が生まれましたが、目指していることはただ一つ、もっとも理想に近い「聖なる公同の教会」をこの地上の教会の姿に実現することです。この点はとても大切な点です。キリスト教会の教派は単なる分派活動なのではありません。より純粋な教会でありたいという願いからの生じたものなのです。
確かに、トラちゃんが最初におっしゃっているように、それも結局人間が考え、人間が決めたことに過ぎないとすれば、まったくバカバカしいことかもしれません。
しかし、少なくともキリスト教会の中に教派が生まれてくるのは、神の言葉の理解を巡ってのことです。神の言葉は教会の理想をどう教えているのか、という理解の違いのい問題です。教派というものは、神の言葉…もっと具体的には聖書を離れて教会のあるべき姿について新しい考えを打ち出すものでは決してありません。いくらでも自由な発想で教派が次々に生み出されるというのではないのです。そういう意味では人間が決めたこととは言い切れないのです。
もちろん、神の言葉では何がどう教えているのかを解釈し、理解するのは人間ではないか、と言われてしまえばそれまでかもしれません。しかし、人間が関わっている以上、人間的な要素をまったく排除することはどんな事柄についてもできないのではないでしょうか。例えば、教会は一つであるという教えも、結局はそれも人間の考えに過ぎないと言われてしまえば、反論のしようがありません。しかし、そうすると「人間の考えることではないか」とそう考えることも人間の考えなのですから、それすらも当てにできないということになってしまいます。すると結局はそう考えている自分すらも信じられなくなってしまうだけです。人間には間違いがあることは認めますが、すべての人間の考えや解釈がすべて当てにならないという考えには賛成できません。
キリスト教会にはたくさんの教派があることは否定できません。しかし、どの教派に属するにしても誰もが信じていることは、聖なる公同の教会は一つであるということです。そして、その一つの聖なる公同の教会を、この地上でどれほど純粋に具現化していくのか、その責務をクリスチャンたちは聖霊なる神に助けられて担っているのだと思います。その尊い働きにすべてのクリスチャンは与っているのです。矛盾かもしれませんが教派があることで返ってより純粋な教会であろうとする姿勢がより鮮明になるのです。