2008年4月30日(水)死後にも救いのチャンスが? 埼玉県 N・Kさん、ハンドルネーム・もーちゃん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週もお二人の方から寄せられたご質問を取り上げたいと思います。まずは埼玉県にお住まいのN・Kさん、女性の方からのご質問です。
「最近、家のポストに入っていたキリスト教らしきチラシに、死んだ後にも救いのチャンスがあると書かれていました。
聖書の第一ペテロ3:19や4:6を根拠にし、聖書的であると言っています。本当のところはどうなのでしょか。」
もうお一方はハンドルネーム・もーちゃんさんです。同じように死後の救いのチャンスについてのご質問です。
「最近、知り合いのブログや出版物で知ったのですが、「セカンドチャンス論(SC論)」というのがあるそうですね。要約すると、この世で福音を受け入れなかった(拒んだ)人でも、死後にもう一度受け入れる機会が与えられるというものであると、私は理解しています。
しかし、素直に(!)聖書を読んでいるとそのような記述は見当たりませんし、SC論が本当だとすると、この世において懸命に福音宣教をする意味が失われてしまうと思います。
一方で、私の極めて“人間的”な感情で言えば、SCがあればいいなと、チラッと思ったりもします。
(中略)
初めの方でも触れた通り、聖書にはSCについては書かれていません。しかし、聖書に神の意思やご計画が全て書かれているわけではなく、人間に知らしめて良しとされる事柄だけが書かれているのであれば、その良しとされない部分に実はSC論が含まれているのではないか……。
私はSC論には反対なのですが、こういう風にも考えられなくはないのでしょうか。いやいや、これはやはりサタンの罠か……。」
N・Kさん、もーちゃんさん、お便りありがとうございました。死んだ後にもなお救いのチャンスはあるのかという問題は、同じ屋根の下にクリスチャンとそうでない家族が一緒に住んでいることが多い日本人にとってはとても興味のある問題であるように思います。愛する肉親が自分と同じクリスチャンになって欲しいと願うのは当然のことです。しかし、その願いがかなえられる前に亡くなってしまうということは、決して少なくない話です。
わたしの想像ですが、おそらくそうしたことがきっかけとなって、ご質問に出てきたような問題を考える人たちが出てきたのではないかと思います。
もちろん、この議論は諸刃の剣ですから、まったく逆の問題に直面して。死んだ後の救いの可能性を否定的に考える人もいるはずです。
例えば、神をも人をも畏れない極悪非道の人がいたとします。その暮らしは贅沢を極め何一つ苦労もなく、しかも、その贅沢な暮らしは貧しい人たちや弱い人たちの犠牲の上に成り立っていたとしましょう。おまけに、この極悪非道の人は世を去る瞬間まで自分の悪い行いを改めるどころか、神などいないと豪語しながら、自分の富と力を誇って亡くなっていったとします。さて、この人にも死んだ後の救いのチャンスは公平に巡ってくるのでしょうか。この人の被害者たちは誰もそんなことを望みはしないでしょう。
随分極端な話になってしまいましたが、その人が死後の救いのチャンスを考えるきっかけが何であるかによって、もうすでに結論の方向性が定まってしまっているともいえるかもしれません。人間の考えることは大体そんなものだと思います。もちろん、それがいけないというのではありません。それをきっかけとして、物事をより深く捉えることができるかどうか、そのことが大切だと思います。
ところで、もーちゃんさんは「聖書に神の意思やご計画が全て書かれているわけではなく、人間に知らしめて良しとされる事柄だけが書かれているのであれば、その良しとされない部分に実はSC論が含まれているのではないか……」という考え方を紹介してくださいました。
確かに聖書に記されていることは神の意思やご計画のすべてではありません。しかし、人間の救いにとって必要なすべての情報は聖書に記されていると考えるのが、正しい聖書の受け止め方です。聖書に記された救いの方法以外の可能性について際限なく想像を広げていくことは決して正しい聖書の読み方ではありません。もしそんなことが許されるのであれば、聖書を手にしている意味がなくなってしまいます。
そこで、お二人が指摘しているとおり、聖書の言葉に中に死後の救いの可能性を語っている箇所が果たしてあるかどうか、そのことだけを取り上げれば十分であるように思います
さて、時間があとわずかになってしまいましたが、N・Kさんが示してくださったペトロの手紙一の3章19節と4章6節についてだけ見てみましょう。
まず3章19節ですがこう記されています。
「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
この節で解釈上問題となる点の一つは、キリストは何を伝えに捕らわれた霊たちのところへいったのかということです。裁きなのか救いなのか、あるいは勝利の宣言なのか曖昧です。しかし、仮に救いのチャンスを与えに行ったのだと解釈したとしても、ここで言われている「捕らわれていた霊たち」というのは次の20節で言われているようにノアの時代の霊たちのことです。ですから、ここから「だからわたしたちも死んだ後にもう一度チャンスがある」という一般論を引き出してくることはにはどっちみち無理があります。
続いて4章6節にはこう記されています。
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
これも、一見するとあたかも死後、福音をもう一度聞くチャンスがあるかのような印象を受けます。しかし、ここでペトロが語っていることは、単に「今は死んでいる者たちが、かつて生きているときに福音を告げ知らされていた」という事実に過ぎません。
従って死んだ後にも救いのチャンスがあるかどうかとうことは、今検証した箇所では必ずしも明確に語られてはいないということです。
むしろ、イエス・キリストご自身はルカによる福音書16章19節以下でお話になった「金持ちとラザロ」のたとえ話の中では、死んだ後の救いのチャンスについて否定的であるように思われます。
ただ、イエス・キリストを救い主として信じることがないままで世を去った肉親を持つクリスチャンの心の痛みは何によって慰められるのか、という問題は依然として残るでしょう。しかし、その問題は別の視点からきちんと考えた方が良いように思います。