2008年4月23日(水)「祈る」と「拝む」の違いは? 埼玉県 M・Uさん、奈良県 H・Kさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はお二人の方から同じようなご質問をいただきました。まずは奈良県にお住まいのH・Kさん、男性の方からのお便りです。

「こんにちは。いつもラジオで番組を聴かせていただいています。早速ですが、質問があります。『祈る』という行為と『拝む』という行為はどう違うのでしょうか。」

続いて、もうお一方、埼玉県にお住まいのM・Uさん、女性の方からのご質問です。

「一つ質問があるのですが、『祈ること』と『拝むこと』は違うのでしょうか。『イエス様を拝む』という表現はおかしいのでしょうか、教えてください」

H・Kさん、M・Uさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。期せずして、お二人からほとんど同じ内容の質問がほぼ同時に寄せられました。きっと番組をお聴きの方の中にも同じような疑問を持っていらっしゃる方がおられるかもしれません。さっそく取り上げてみたいと思います。

まず、「祈ること」と「拝むこと」の違いですが、日本語の一般的な用語の使い方から言えば、もちろんこの二つは違った意味で使われています。
一般的に「祈る」というのは神や仏などに対して、自分の望みや願いを念じることです。あるいはただ単に自分の願望や希望を述べるときにも「祈る」という言葉を使う場合もあります。
それに対して「拝む」という行為は本来の意味は体を折りかがめて礼をすることというのが第一義的な意味です。その対象は必ずしも神や仏などの宗教的な存在ばかりではなく、人間を対象として「拝む」場合にも使われます。もっと宗教的な用語としては「拝む」という言葉に代えて「礼拝する」という用語を用いる方が一般的です。
もっとも拝みながら祈るということもありますので、両者は区別しにくい場合もあるかもしれません。しかし、拝むという行為は必ずしも祈りを伴うわけではなく、また祈るという行為も、必ずしも身をかがめる行為を伴うとは限りません。

さて、以上は一般的な日本語での話ですが、聖書の世界ではどうでしょうか。もちろん聖書の中にも「祈る」という言葉は、それに関連した類義語も含めてたくさん出てきます。そして、それらは異教の神々に対する祈りにも使われていますが、本来はまことの神にだけささげられるべきものです。
そして、聖書の中で捧げられる具体的な祈りの言葉は、単に自分の願いを神に述べるだけではなく、神を崇め、賛美する祈りの言葉もあれば、自分の罪を告白する懺悔の祈りもあります。また、特にイエス・キリストがマタイによる福音書6章7節以下で異邦人の祈りと区別して教えられたことは、まことの祈りとは神に自分の必要や願いをくどくどと説得することではなく、すべての必要をご存知であるまことの神の御心を尋ね求めることである、ということです。そういう意味では、同じ「祈る」という言葉でもキリスト教的な意味での祈りはそれ以外の宗教の祈りとは内容も対象も違っているのです。

また、「拝む」という言葉も、聖書の中では日本語とほとんど同じような意味で使われています。その対象は異教の神々である場合もありますし、膝を屈めて礼をするという一般的な表敬の行為としては人間もその対象になります。ただ、宗教的は意味で礼拝するという場合には、その対象は唯一まことの神だけが対象であるべきだというのが聖書の教えです。

例えば出エジプト記34章14節には「あなたはほかの神を拝んではならない」とあります。つまり拝む対象、礼拝の対象は唯一まことの神だけであるという教えです。ここで使われている「拝む」という意味のヘブライ語は、創世記42章6節で「ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフ拝した」というところに出てきます。ここに出てくる単語はまったく同じ単語ですが、この場合には、礼拝の対象としてヨセフを拝んだのではなく、恭しく敬意を表したという意味でヨセフの前でひれ伏してヨセフを拝礼したにすぎません。ですから同じ「拝む」という単語でもその意味するところは違っているということです。

ですから、聖書の世界では、礼拝の対象として拝んでもよいのは唯一まことの神だけですが、敬意を表す行為としてひれ伏したり膝をかがめたりするのは、人間が対象であったとしても、それは礼儀作法の一つに過ぎないのです。

さて、それでもう一つの問題ですが、イエスは礼拝の対象であるかどうかという問題です。
新約聖書の中には「イエスを拝む」という表現がいくつか出てきます。例えばイエスがお生まれになったとき、東の国からやってきた博士たちはイエスを拝んで黄金、乳香、没薬の贈り物を捧げました(マタイ2:11)。その場合の「拝む」という言葉は、先ほども言いましたように礼拝の対象として「拝む」という場合と、王に対する敬意を表する行為として「拝む」の両方の意味がありますから、この箇所だけからでは、この博士たちがイエスを礼拝の対象として拝んだのかどうかははっきりしません。
他にもルカによる福音書24章52節には復活のイエスが天に昇られるのを見た弟子たちについて「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰」ったとあります。この場合もイエスを礼拝したとも受け取れますが、必ずしも断定することはできないかもしれません。
しかし、フィリピの信徒への手紙2章9節以下に記されていることから考えると、明らかにイエスはあらゆるものの上に挙げられた主として、礼拝の対象であると考えることができます。そこには、このように記されています。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

ですから、キリスト教会ではイエス・キリストは真の神、主として礼拝の対象なのです。