2008年4月16日(水)クリスチャンと罪と救い T・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「ご無沙汰しております。その後益々ご健勝の事と存じ上げます。
早速質問なのですが、差別(特に人種差別)と信仰についてです。こういう事は米国で時々有ることと存知あげますが、人種差別をしている人が信仰を持っている時、そういう人も救われるのでしょうか?人種差別は『隣人を愛しなさい』というイエス様の教えと矛盾しているように思うのですが…。よろしくお願いします。」
T・Hさん、お久しぶりです。いつも番組を聴いていてくださってありがとうございます。とても興味深いご質問をお寄せくださり、いろいろなことが一気に頭の中を駆け巡りました。
お便りを読ませていただきながら、まず初めに頭を駆け巡ったことは、どうして罪一般のことではなくて「差別」の問題、特に「人種差別」の問題に特定してご質問を寄せてくださったのだろうかという疑問です。ただ単に「罪を犯している人が信仰を持っているとき、そういう人も好くわれますか」という取り上げ方ではいけなかったのでしょうか。
確かに漠然と「罪」というものを描くよりも具体的な罪を例にあげて考えた方が、より問題が身近なものとして捉えられるというのも一理あるかもしれません。しかし、それならアメリカで起りがちな問題を例として引き合いに出すよりも、日本人のクリスチャンでも犯しがちな問題を例としてあげた方がよさそうな気もします。例えば、去年はいろいろな偽装問題が日本国内で発覚して大きな問題となりました。そういう職場でもしクリスチャンが働いていて、もちろん、その事実を知りながら告発しなかったら、そのクリスチャンは救われるでしょうか、という質問でもよかったはずです。もっとも、その場合には、もしそんなクリスチャンがいたとしても、あえて告発しないのはその人の弱さということもあるでしょう。
いずれにしても、質問を人種差別に特定して応えなければならない質問なのかどうか、ご質問の本当の意図はどこにあるのか、いろいろ頭を悩ませました。
わたしが用意できる答えは、問題が人種差別であろうと、偽証であろうと、それが聖書の罪に当るのであれば、答えは一緒です。ですから、問題を一般化して取り上げた方がすっきりと考えることができるのではないでしょうか。
しかしまた、逆説的ですが、敢えて人種差別に特化してご質問された意図は、ある罪を断罪し別の罪を罪として意識しない人たちへの批判を込めた質問なのかもしれないとも思いました。例えば盗みも殺人も罪であると確信している人が、人種差別は別問題だと思っている場合があるかもしれません。ご質問の中で名指しで登場したアメリカ社会では、憲法が理想としている人種差別の撤廃が理想どおりに実現していないという現実があることは否めません。クリスチャンの中にもごく稀に差別的な態度を取る人に出会うということがないでもありません。もちろん、その点を除けば常識的なクリスチャンである場合がほとんどです。果たして、そういうクリスチャンは救われるのでしょうか。それとも、クリスチャンの名に値しないのでしょうか。
もっとも、その程度の問題であれば、日本のクリスチャンの全員が差別的な態度を外国人に対して取らないかというとそうではないと思います。例えば「宣教師」という言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのは西洋人の宣教師の姿で、アジアの国々からの宣教師の姿を思い浮かべることがなかなかできないというのは、日本の教会の中では起りがちです。頭の中で思い描く世界のことなら、ただ単に想像力が欠如しているだけかもしれません。しかしが、具体的に自分たちの教会にアジアからの宣教師を喜んで迎えることに抵抗がある人たちがいることも事実です。
そんなことを思うと、ご質問の中でアメリカを名指しにしているのは、たまたま例としてあげただけなのか、それとも日本の教会では人種差別はほとんどありえないという認識で物事を考えるべきなのか、そんなことも頭を駆け巡りました。
他にもまだまだ色々なことが頭の中を駆け巡ってしまったのですが、とりあえず、先ほども言いましたが、問題を複雑にしないためにシンプルに考えたいと思います。
先ずは罪と救いの問題です。聖書は「正しい人は一人もいない」と述べています。そういう言い方を好もうと好まないとにかかわらず、聖書はすべての人は罪人であって、神の国に入る資格のないものであると述べています。しかし、だからこそ救いが必要なわけなのです。
聖書は、その救いをどのように手に入れるのかということに関して、ただ一つの道しか認めていません。それはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるという方法です。善い行いによって神の義を満足させて救いを自分の手で勝ち取るということは、残念ながら罪ある人間にはできないのです。
ところで、聖書によれば救いの完全な実現は、終末の時に神の国の完成と共にもたらされます。しかし、信仰によって神の義をいただき、神の子とされると言う意味での救いは、この世においても既にいただいている救いの恵みなのです。そして、また、終末の時を目指して、日々清くされる恵みをいただいているというのも聖書が教えているとおりです。
さて、ここで問題なのですが、当然、救いの完成の途上にあるクリスチャンはまったく罪を犯さないというわけではありません。罪を犯すクリスチャンが要ることは現実ですし、そのことを聖書自身も認めています。
たとえば、ヨハネの手紙一はクリスチャンに宛てて書かれた手紙ですが、その1章9節でこう記されています。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
同じようにパウロはガラテヤの信徒への手紙6章1節で「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」と述べて、クリスチャンにも罪を犯す可能性が残っていることを前提に手紙を書いています。
では、そういう罪を犯してしまったクリスチャンはどうすべきなのでしょうか。パウロは続けてこう書いています。
「”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」
つまり、そういうクリスチャンを裁くことが他のクリスチャンの使命なのではなく、先ずはその人を柔和な心で正しい道に導くことが求められていることなのです。
最初のご質問に戻りますが隣人愛に反する人種差別を行なっているクリスチャンがいるとすれば、その人は救われるべきではないと裁くことがわたしたちに求められていることではなく、その人が隣人愛に生きることができるようにと柔和な心で導くことが、わたしたちに求められていることなのではないでしょうか。