2008年4月2日(水)キリストの系図は矛盾していませんか ハンドルネームtadaさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームtadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「質問です。聖書には、アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図があります。一方でイエスは、マリアによって処女降誕したとあります。処女降誕であれば、アブラハムやダビデの家系ではないのではないですか。処女降誕とアブラハムの家系とは矛盾しませんか。」

tadaさん、お便りありがとうございました。新約聖書を初めて手にして開いたとき、まず最初に目に飛び込んでくるのが、イエス・キリストの系図です。旧約聖書に慣れ親しんでいる人にとっては、そこに記されている名前のいくつかは、とてもなじみのある人物の名前です。名前を見ただけで、その人がどういう人であるのか、どんなエピソードのある人なのか、すぐに頭に思い浮かべることができると思います。
しかし、旧約聖書を知らない人にとっては、まるでちんぷんかんぷんのカタカナの羅列としか思えないことでしょう。おまけにカタカナの名前を辛抱してやっとお終いの人物にたどり着いてみれば、系図とは直接関係のない人物からひょっこり生まれたとあっては、なんだか肩透かしを食らった気持ちになってしまうかもしれません。

さて、ここでマタイによる福音書に記された系図を改めて全部朗読するのは、読む方も聴いている方も大変です。まずはかいつまんで要点だけ見てみることにしましょう。

マタイによる福音書1章1節は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まります。このタイトルのような言葉を見ただけでも、イエス・キリストがアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であることが分かります。少なくともマタイ福音書がここに長々と系図を載せる理由は、イエス・キリストこそダビデ王の末裔であって、メシアがそこから生まれるという預言の言葉を成就するものであるということを証明しようとする意図があるからです。

ちょっと余談になりますが、系図を重んじるのは既に旧約聖書の中にも見られることです。旧約聖書の中にはあちこちにこのような系図が書き残されています。なぜ、こんなにも系図にこだわるのかというのには理由があります。それは、系図そのものが神の恵みを表しており、系図によって自分が神の民の恵みに与る正当な末裔であることを証明することができるからです。
その昔、バビロンの捕囚から解放されて再びユダヤの土地に戻ってきた人の中には自分たちの家系の記録を発見できずに、祭司職に就くことを禁じられた者たちがいました(ネヘミヤ7:64)。そんなこともあって、誰がどういう家系なのか、その記録を記した系図はとても重要なのです。
そして、もう一つ余談ですが、旧約聖書の中で「誰それの系図」というときは、その人が生み出した子孫を記すのが通例です。例えばアダムの系図は、アダムが誰を生んだのか、アダムから始まって子孫へと系図が延びていきます。ところが、イエス・キリストの系図はイエスが生んだ子孫を記す系図ではなくイエスに至るまでの系図です。その点が旧約聖書の系図とちょっと違う点です。

さて、話が横道にそれてしまいましたが、このマタイ福音書の系図をずっとたどっていくと、最後に「エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた」と結んでいます。そうして、話の流れからすれば、「このヨセフがメシアと呼ばれるイエスをもうけた」となるはずなのですが、突然この系図とは関係のないマリアの名前が登場して「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記されます。これでは一体何のために長い系図を記してきたのか、さっぱり意味が分からなくなってしまいます。もし、イエス・キリストがダビデの家系に属することを証明するために系図を書き記すのであれば、処女降誕である母マリアの系図を記さなければ意味がないような気がします。それが今回のご質問の意味する点です。

ところで、この問題は今に始まった問題ではなく、ずっと前から指摘されてきた有名な問題です。そして、そのここと絡んで、ルカによる福音書に記されたイエス・キリストの系図との関係が問題にされています。
実は新約聖書のルカによる福音書3章にもイエス・キリストの系図が記されています。マタイによる福音書と違って、ルカ福音書はイエス・キリストからさかのぼってダビデ、アブラハムを通り越してアダムにまで至ります。さらに、詳しく見てみると記されている人物もまったく同じではありません。
そこで、この二つの系図の違いを説明するために昔からいろいろな工夫がなされたのですが、その一つは、ルカによる福音書はじつはマリアの系図を記したものだとする考え方です。もしそれが正しいとすれば、結局のところマリアもヨセフもダビデの子孫なのですから、たとえ処女降誕であったとしてもイエス・キリストはダビデの子孫であると言うことができるというものです。

しかし、これにも全然問題がないわけではありません。ルカによる福音書の系図を素直に見れば、マタイ福音書のそれとは違っていますが、それでもイエス、ヨセフとさかのぼって記していますから、これはヨセフの系図と理解するのが自然でしょう。

では、そうなると、イエス・キリストはどういう意味で処女降誕でありながら、ダビデの子孫ということができるのでしょうか。もし、ルカによる福音書に記された系図が母マリアの家系でないとすれば、イエスがダビデの子孫である証拠はどこにもないということになってしまいそうです。

さて、問題の解決のためには、ここで一旦系図や生物学的な血のつながりを離れて物事を考えてみる必要があるように思います。もし、初代のキリスト教会がイエス・キリストがダビデの子孫であることを証明しようとして、ここに系図を載せたのであるとするならば、誰もが指摘する矛盾に最初に気がつくのは誰あろう、マタイ自身やルカ自身であったはずです。わたしたちでも気がつくこの矛盾を聖書記者が気が付かないはずはありません。そんな矛盾した系図を載せれば、ユダヤ人から「イエスはダビデの子孫ではないからメシアではない」と簡単に反駁されてしまいます。
ということは逆に考えれば、この系図はイエスがダビデの家系であることを示すのに十分なものであったということなのです。

つまり、生物学的な血のつながりがダビデにさかのぼれるかどうかという問題よりも、福音書記者にとってはイエス・キリストがダビデの家系に生まれたかどうか、そのことが問題なのです。ヨセフはマリアを正式に妻として迎え、その夫婦の間にイエスは生まれたのですから、まぎれもなくダビデの子孫なのです。聖書記者にとってはそれを示すことで十分だったのです。