2008年3月19日(水)日曜日は礼拝の日ですか? 匿名希望さん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「突然ですが、こんな質問をするのは場違いとは思いながら、敢えてさせていただきます。
日本でキリスト教がいまだに1%の壁を超えることができない原因の一つに、日曜日の礼拝厳守ということが重荷になっているのではないかと思います。熱心な教会ほどこの日曜日の礼拝厳守のことばかりを強調して、日本の現状を見ていないように思うのですがどうでしょうか?
中学生になれば部活や試験勉強で毎回日曜日に教会に来ることは難しくなっています。学生になればそれなりに付き合いの範囲も広がり、都合の良い日を絞って集まれば、結局は授業のない土曜日や日曜日ということになってしまいます。
また社会人になって就職すれば、それこそ生活が掛かっていますから、毎回日曜日を休むことはほとんど不可能ではないでしょうか。もちろん、日曜日にきっちり休みが取れる人でも、日ごろのできない用事は土日にするしかなく、健康管理の上からも日曜日にまで教会へいって疲れてくるというのはどういうものなのでしょうか。毎回日曜日に礼拝を守れるという人は限られていると思います。
結局時間に余裕があって健康管理も十分に出来る人しか教会へ集うことができないということなのではないでしょうか。日曜日の礼拝厳守などうるさく言わないほうがもっと日本の教会人口は延びるように思いますがいかがでしょうか。お考えをお伺いできればと思います。」

お便りありがとうございました。いただいたお便りを何度も読み返させていただきました。何度も何度も読み返してみたのですが、わたしの心はもやもやとしてすっきりしませんでした。というのは、お便りを読んでいて、問題の焦点がどこにあるのかはっきり掴むことができなかったからです。
ご質問の書き出しは、クリスチャン人口1%の壁を破るには、というとても積極的な内容を思わせるものでした。ところが読み進めていくうちに、何だか礼拝を守ることができないことを弁解しようとしているのか、大目に見ようとしているのか、どこに質問の本当の意図があるのか見えなくなってきたからです。

とりあえず、ご質問の文章に沿って感じたことを述べていきたいと思います。
先ずはじめに「日本のキリスト教人口が1%未満である」という事実は動かしがたい現実です。しかも、この数字は長いスパンで見てもほとんど変わっていません。
さて、その原因の一つとして「日曜日の礼拝の厳守」ということが重荷となって悪影響を及ぼしているのではないかというご意見です。確かに日曜日の礼拝を守るということは簡単なことではないというのは確かです。特に小さい時から日曜日に礼拝を守る習慣のない人にとっては、途中からその習慣を身につけることはそれなりの苦労が伴うことは否めません。
しかし、考えても見れば、日本よりキリスト教人口の割合が多い国では、礼拝を守りやすい環境だったのでしょうか。例えばお隣りの国韓国ではクリスチャン人口の増え方はアジアの国の中でも目を見張るものがあります。特に1950年以降のことを考えてみると、日本より韓国のほうが礼拝を守りやすい環境にあったとは到底思えません。また、韓国の教会が礼拝厳守ということをあまり強調しなかったとはいえないでしょう。むしろ逆で、日本以上に礼拝を熱心に守ることが強調されてはいないでしょうか。
そもそも初代教会の頃のことを考えてみましょう。教会の中には自由人も奴隷もいました。自由人は比較的時間があったでしょうから、集会に集まることはそれほど苦ではなかったかもしれません。しかし、奴隷の身分のものが集会に出ようとすれば、それはそれは大変だったはずです。
使徒言行録20章には夜の集会に集まってきたエウティコという青年が居眠りをして窓から落ちた話が出てきます。何とも不真面目な青年と思うかもしれませんが、そこまでして集会に出ようとしていた青年の話だと思うと、みんなが暇だったから礼拝に集まっていたわけではないはずです。それにもかかわらずキリスト教がオリエントからヨーロッパに広がっていったのですから、礼拝が守りやすい守りにくいということと、クリスチャン人口の伸びとはあまり直接関係していないように思います。
わたしはそんな調査をしたことがありませんが、果たして日本の教会の中で同じ町で同じくらいの歴史の長さを持つ教会で、日曜日の礼拝厳守を強調してきた教会と、まったく無頓着だった教会で、果たして目に見えるほど教会員の増え方に差が出るでしょうか。わたしの予想ですが、ほとんど差がないか、むしろ逆で日曜日の礼拝への出席を重んじる教会の方が会員数が多いのではないかと思います。
従って結論から言うと、日曜日の礼拝厳守ということを教会が口うるさく言わなくなったとしても、クリスチャン人口1%の壁は、それだけで超えることはできないように思います。むしろ逆で1%の水準を維持することさえもむずかしくなってくるのではないでしょうか。

さて、クリスチャン人口1%の話は脇へ置いておくとして、ご指摘のとおり日本の社会で日曜日の礼拝を守るということは、決して簡単なことではないということは否定できません。中学高校生にはそれぞれの悩みがあり、学生にはそれなりの葛藤があり、そして、社会人になって様々な時間の制約があるでしょう。どんなに日曜日の礼拝の厳守ということを強調しても、それでもそれを守ることが出来ない状況があることは事実として認めざるを得ません。
しかし、だからといってそれぞれのことを優先して、礼拝は残った時間で守ることができればしてもしなくてもよい、と考えてよいものか、その考えには同調することができません。
クリスチャンの考えのまず第一にあることは、神はそれについて何を望んでいらっしゃるか、ということではないでしょうか。聖書の神はキリスト教人口がもっと増えるならば、日曜日の礼拝など二の次でもよいとお考えなのでしょうか。わたしにはとてもそうは思えません。神の国と神の義を第一とすることを願っていらっしゃる神様は、神を中心とした生き方を人々がすることを望んでいらっしゃるのではないでしょうか。まず、その点で妥協があってはならないはずです。
しかし、神を第一とする生き方は、隣人への愛と矛盾するものではないということも聖書の教えです。礼拝を守れる自由と恵みに与っている人が、様々な事情で礼拝を守ることができない人を裁くために、日曜日の礼拝の厳守をことさらに強調しているのであれば、それは神をも人をも愛しているとはいえないでしょう。もし、そういう雰囲気が人々を教会から遠ざけているとするならば、その点は心から改めるべき点であると思います。