2008年3月12日(水)不正の勧め? ハンドルネーム・カイさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・カイさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。番組を楽しく聞かせてもらっています。
さっそくなのですが、前から疑問に思っていたことについて質問させてください。それはルカ福音書16章に出てくるたとえ話についてです。そこでは借用書を書き換え不正を働いた管理人が主人によって褒められています。たしかに、それは譬え話の中の出来事ですから、言わんとすることは分かるような気がしないでもないです。しかし、さらに難解なのは、この譬え話の結論としてイエス様がおっしゃっていることです。
『そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる』
これはいったいどういうことなのでしょうか。不正に得た富でほんとうに友だちを作れということなのでしょうか。
何度このたとえ話を読んでも意味が分かりません。いったいこのたとえ話を通してイエス様はわたしたちに何を望んでいらっしゃるのでしょうか。教えてください。よろしくお願いします。」
カイさん、お便りありがとうございました。カイさんがご質問くださったルカによる福音書16章のたとえ話は「不正な管理人のたとえ」と呼ばれる有名なたとえ話です。そのたとえ話が有名な理由は、まさにカイさんがご質問してくださったように、このたとえ話が難しくて何を言おうとしているのか分かりにくいからです。
常識から考えると、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という勧めは、真面目な人がする勧めではありません。もし勧めるとするなら「お金の切れ目が縁の切れ目にならないような友だちを作りなさい」とするか、あるいは「真面目に働いたお金で友だちをもてなしなさい」とするか、どちらかだろうと思います。そして、そういう結論の話をするとしたら、そもそも、こんな例話にはならなかっただろうと思います。
ルカ16章に出てくる「不正な管理人」のたとえ話は誰がどう考えても常識外れのたとえ話であることは疑いようもありません。事実、この話を聞いたファリサイ派の人たちは「この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とルカによる福音書には記されています。つまり、この時代の人たちにとってさえもイエス・キリストのたとえ話は難解でまともな意味を持つとは思われなかったのです。
さて、ご質問にお答えする前に、「不正な管理人のたとえばなし」を知らない方もいらっしゃると思いますので、まずは、何のコメントも加えずに、そのお話を聖書に記されたままお読みしたいと思います。
ルカによる福音書16章1節から13節までです。新共同訳聖書でお読みします。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、50バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。80コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
さて、たとえ話を読むときに注意しなければならないことがいくつかありますが、その一つはそのたとえ話に出てくるすべてのことに意味があると考えてしまうことです。肝心なことはあくまでも中心的な事柄です。たとえ話というのは何か言いたいことが一つあって、そのことを言いたいために語るものです。このたとえ話の中心は何でしょうか。
それはこの管理人にとって自分の進退問題にかかわる危機が迫っているということ、そして、この管理人はその危機を察して、なんとかその危機が自分の身に及ばないように一所懸命になったということです。やり方は正しいとはいえませんが、危機管理能力はそれなりにあったわけです。この管理人の主人が褒めたのはそうした抜け目のない危機管理能力なのです。
このことは最後の審判が間近に迫っているこの時代を言い表しています。イエスの宣教の中心は神の国の到来を告げるメッセージでした。神の国が完成する時がまさに目の前まで来ているときに、どう振る舞うべきなのかそのことがこのたとえ話で問われているのです。
問題はまず、今の時代のどう認識するかということです。このたとえ話を聞かされた人たちは、今の時代がそういう危機的な時代だという認識がなかったのでしょう。この不正な管理人の身に起ろうとしていることは、まさにわたしたちの身に起ろうとしていることなのです。まるで自分には関係がないことのようにのほほんとしてはいられないのです。このたとえ話は何よりも先ず終末の危機的な状況が目前まで迫ってきていることを語っているのです。
次に問題なのは、終末がすぐそこまで近づいているという認識があっても、自分だけは大丈夫という根拠のない安心感です。このたとえ話を聞かされた人たちの大半は自分は大丈夫という思いがあったのでしょう。だからこそ、この話を聞いてもあざ笑うことしかなかったのです。しかし、暢気に自分は大丈夫と思っていられるほど、状況は楽観的ではないのです。この管理人のように、今すぐにでも手を打たなければ、自分の身が危ないのです。
さて、このたとえ話のこうした中心点さえしっかりと抑えておけば、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という不可解な勧めの言葉尻に惑わされることはないでしょう。むしろこれくらい衝撃的な結論で結ばなければならないほど、身に迫っている終末的な危機は重大で時間的な余裕がないのです。
確かにイエスがこのたとえ話をお語りになってから、もう2000年近い時が経っています。再び人々の心には終末に対する楽観的な思いが支配しているかも知れません。そうであればこそ、このイエスのたとえ話はわたしたちに重要な決断を迫っているのです。たとえ話に登場する管理人を不正で悪賢い管理人だなどと批判している余裕などないのです。自分が正に終末の時を前にしてあの管理人と同じ立場にいることを、このたとえ話は教えているのです。