2008年3月5日(水)聖書は結局人間が書いたのでは? Aさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望のAさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。前にもご質問に答えてもらった者です。きょうもまた質問させてください。
きょうは聖書についてです。聖書は神の言葉であると聞きましたが、結局は人間が書いたものではないでしょうか。どうして聖書は正しいといえるのでしょうか。教えてください。」
Aさん、こんにちは。今回もご質問ありがとうございました。確かAさんは中学生でしたね。そんな風に聖書について興味をもって下さっていること、とても嬉しく思います。前にも話したことがあるかもしれませんが、わたしが聖書を初めて読んだのは、中学を卒業してからのことです。中学生の頃は聖書を読んでみようという思いすら浮かんだことがありませんでした。もちろん、それまでキリスト教に触れたことがなかったわけではありませんが、聖書を読んだこともないのに「何かキリスト教は胡散臭い」と食わず嫌いな時がありました。
今までのお便りから想像すると、Aさんは実際に聖書を読んだこともあるようですし、教会にも行っていらっしゃるようですね。ただ、まだキリスト教が信じるに値するものなのか、それともどの宗教も同じように結局は人間の作ったものに過ぎないのか、そんな疑問をもっていらっしゃるんですね。
さて、さっそくご質問にお答えしたいと思うのですが、Aさんは「聖書が結局は人間によって書かれたものではないか」という疑問をお持ちです。そして、そのような疑問を抱かれた結果、「だから聖書は正しくないのではないか」という結論に至っているようです。
もちろん、人間が書いたものは皆間違っているというわけではなく、人間の書いたものは絶対的ではないので、誤りもありえるという意味で、「だから聖書は正しくないのではないか」という疑問を抱いていらっしゃるのですね。
そこでまずは、聖書は誰によって書かれたのか、というところからお話を始めたいと思います。
「聖書は神の言葉である」とはキリスト教会では普通に信じられていることです。もちろん、そうではないという考えの人もキリスト教会の中にないわけではありませんが、Aさん自身も耳にしているとおり、キリスト教会では「聖書は神の言葉」として一般的に信じられています。
さて、「聖書は神の言葉である」というとき、Aさんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。たとえば、「この本はXさんの言葉である」といえるような本があったとします。もっとも、「この本はXさんの言葉である」という言い方そのもをあまりしないかもしれません。もしそういう本があるとしたらの話ですが、その本の内容はきっとこんなものだと想像するに違いありません。その一つはその本がXさん自身によって書かれたものである場合です。Xさん自身が書いたものであれば、その内容がどんなものであってもXさんの言葉に違いありません。あるいは、Xさん自身の言葉をだれか他の人が口述筆記したものも、はやり「この本はXさんの言葉だ」といえるでしょう。さらに、口述筆記ではありませんが、たとえばXさんの友だちがXさんの語った言葉を思い出して語録のようにまとめれば、それも「この本はXさんの言葉だ」といえるでしょう。しかし、誰かが勝手にXさんになりすまして書いたものや、Xさんの言葉だといって捏造したものについては、「この本はXさんの言葉だ」というのは明らかに誤りです。
きっとAさんが「聖書は神の言葉である」ということを聞いて思い浮かべたのは、そういうようなことではないかと思います。そして、おそらくAさんが頭の中に描いたことはこんなことではないでしょうか。
「神ご自身が本を書くということは常識的に考えられないし、神の言葉を口述筆記したというのは、聖書を読む限りありそうもないことだ」「あえてあるとすれば、神でない人間が神の言葉を思い出して書いたか…しかし、聖書は神やイエスの語録だけではないので、それもありえない。とすると、残るのは人間が神の名を語って書いたか、まったくの捏造であるかどれかしかありえないのではないか」…というような結論に至ったのではないかと思います。
しかし、「聖書は神の言葉である」というときに、その意味することがらは、今述べてきたようなこととは違うのです。例えばパウロの手紙にはパウロ自身の考えと主の命令とが区別されて記されている箇所があります。あるいはルカによる福音書は著者である人物自身が様々な資料に当って記したことを序文の中で明かしています。確かにこうしたことは、さっき述べた基準からすれば、「聖書は神の言葉である」とはいえない理由ともなるケースです。
しかし、「聖書は神の言葉である」という意味は、人間の手による調査や編集の過程もも含めて、その出来上がったものが神の導きのもとに書かれ、神によって霊感されたものであるということなのです。ですから、なるほど聖書は神様ご自身がペンととって書かれたわけでもなく、誰かに筆を持たせて口述筆記させたわけでもないにもかかわらず、神の霊によって霊感されているので、聖書は神の言葉なのです。
しかし、そのことが正しいと誰が言うことができるのでしょうか。結局それも人間の考えに過ぎないのではないかという疑問が当然出てくるでしょう。残念ながらそれ以上のことは証明することはできません。
17世紀に書かれたキリスト教信仰の真髄をまとめた本に、「ウェストミンスター信仰告白」という本があります。その本の中にはこのことが実に簡潔にまとめられています。すこし難しい言葉ですが全部引用してみます。
「わたしたちは教会の証言によって、聖書に対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、御言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るものである。」
要するに、聖書が神の言葉であるという完全な納得と確信は、御言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るものである、ということです。つまり、聖霊の働きだけが聖書が神の言葉であることをわたしたちに証しし、説得してくださるのです。そして、そこが人間の書物とは違うところなのです。
どうかAさんも聖霊の働きによって聖書が神の言葉であることを信じることができますようにとお祈りします。