2008年1月9日(水)クリスチャンの小物にたいする疑問 北海道 ハンドルネーム dosankodebbie さん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は北海道にお住まいのハンドルネーム dosankodebbie さん、女性の方からのご質問です。SNSぱじゃぱじゃのコミュニティ掲示板に寄せられたご質問です。

「私はある陶芸家のアトリエを訪れ、その陶芸家が作っていた小さな、愛らしい『おじぞうさん』に一目惚れをして、夫に買ってもらうようにせがみました。でも夫は、『僕たちにとっては宗教的意味がなくても、人が見たら誤解されるかもしれないし、人がつまづく原因になるかもしれないから、ダメ』と言われました。私はそれで納得しました。そして、私たちクリスチャンが身の回りに置いている小物について考えるようになりました。
たとえば、キリストを描いた絵画です。友達の家や教会堂にも飾ってあることがよくあります。人間はそのつもりが無くても、ついつい『もの』に特別な意味を与えたりしますよね?旧約聖書的に言うと神様に形を付けるのは良くないはずですし、下手すると、その飾り物/小物が『ご本尊』のような存在になってしまう危険性があると思いますが、どうでしょうか?」

dosankodebbieさん、トピックを立てて下さってありがとうございました。ご質問を何度も何度も読み返しながら、この問題をどんな風に考えていったらよいのかいろいろと考えました。しかし、行き着くところは二つのことに尽きるような気がします。それはイエス・キリストが教えてくださった、最も大切な掟に則ってどう考えるのかということです。イエス・キリストは最も大切な掟について、こう語ってくださいました。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

どんな行動であれ、この二つの掟に少しでも適わないとすれば、それはどんな理由をつけてもしてはならないことです。また、何かをしないということが、どんな理由をつけてもこの二つの掟に反するならば、それはなすべきことだったと考えるべきです。しかし人間生活のすべての行いが「すべき」か「すべきでない」かの二通りしかないと考えるのはあまりにも極端すぎるような気がします。してもしなくてもよいこと、人間の自由な判断に任されている事柄も数多くあることを聖書は実例で示しているように思います。たとえば、使徒言行録の15章36節以下に再び伝道旅行に旅立とうとするパウロとバルナバの話が出てきます。結局この二人の間には大激論が起って、それぞれ別な人を連れて、別々の場所に伝道旅行をします。この場合、誰を連れて行くべきか、どこへ行くべきか、最も大切な掟に照らし合わせたとしても、パウロとバルナバのどちらがなすべき行動を取り、どちらがすべきではない行動だったということはできないでしょう。もっとも大切な掟に反しない限り、自由な行動の範囲というものを聖書は否定していないのです。

ところで、今回のご質問は「クリスチャンの小物」に対する疑問です。その場合の小物と言うのは具体的にはキリストを描いた絵画などの作品です。あるいは十字架のアクセサリーや、少し前に流行ったWWJDち書かれたブレスレットの類も含まれるでしょう。
そもそもdosankodebbieさんがこうしたクリスチャンの小物について疑問を抱かれるようになったのは、「旧約聖書的に言うと神様に形を付けるのは良くないはずですし、下手すると、その飾り物/小物が『ご本尊』のような存在になってしまう危険性がある」という思いからでした。
前半の「神様に形を付ける」ということに関して、神は言葉だけによって表現されるべきであるのか、それとも、音楽や絵画などの芸術によっても表現してもよいのかという問題は、それ自体が大きな問題であるので、きょうはそういった細かい議論には立ち入らないことにします。むしろ、後半の点、「その飾り物/小物が『ご本尊』のような存在になってしまう危険性がある」という点はそのとおりだと思います。
ただし、二つの点を注意する必要があります。一つは「危険性がある」というだけで、それが直ちに最も大切な掟に反するとは言い切れないということです。
たとえば、料理に使う包丁があります。この包丁は殺人の凶器として使われる危険性があります。実際殺人事件の凶器として非常によく使われています。だからといって、包丁を持つことは十戒のいう「殺してはならない」という掟に反することになるのでしょうか。そうではないでしょう。宗教画や十字架のアクセサリーがご本尊やお守りのような偶像になる危険性があったとしても、だからといってすべての宗教画や十字架の形をしたものが「何ものをも神とすべからず」という十戒の掟を犯していることにはならないでしょう。要はそれを所持する人が、それを持つことでどの程度の危険を生む可能性があるのかということに尽きるのだと思います。もし、自分に危険性があると思うのであれば、持たなければ善いだけのことです。
そのことについて他者に忠告すべきかどうかと言うのは、また別の問題です。ただ、クリスチャンの小物を持つことでその人が、神ならざるものを神としてしまう危険が迫っているならば、忠告すべきでしょう。
もう一つの点は、このことはクリスチャンの小物に限って言えることなのでしょうか、という問題です。神でないものを神としてしまう、何か偶像化してしまうという危険はどんなものについても言えることです。お金だって神から心をそらしてしまう危険があると言う意味では偶像になりやすいものです。学歴や地位もそれが追求の対象となった時点で神から心をそらす危険は増大します。従ってクリスチャンの小物を持たない生き方をしたからといって、それで大切な掟である「心から神を愛する」生き方をしているとはいえないのです。人間は何も持たないとしても、それでも、神に心を向けないと言うことは十分ありえるのです。ですから、何を持つ、何を持たないにせよ、そのこと自体が問題なのではなく、結局のところ神を愛する生き方をしているのかどうか、そのことこそが問題の出発点ではないかと思います。

さて、dosankodebbieさんは隣人愛の観点からも問題を考えようとしてくださっています。人がつまずく原因をあえて作るのはよくないという判断から、ある作品を買うことを断念したと言うことでした。
そのこと自体がよいことでもなく、悪いことでもないような自由な事柄であっても、隣人を愛するという掟に反することになりかねないようなことは、やはりすべきではないでしょう。
パウロは「あなたがたのこの自由な態度が弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(1コリント8:9)と述べています。どんなことをしても人がつまずく可能性は否定できません。しかし、つまずくかもしれない人がいることが予想できるのに、あえてそのことを行うのは隣人愛に反することでしょう。もしそれでもあえてするのであれば、そのつまずく人の徳を高めるためにすべきなのです。「愛は造り上げる」(1コリント8:1)という言葉のとおり、つまずきや破壊のためではなく、造り上げるためにこそ何かをなし、何かを控えるべきなのです。