2007年12月26日(水)救いの確信について 愛知県 A・Yさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのA・Yさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生。いつも番組を楽しみに聴かせていただいております。
さて、イエス・キリストによる救いの確信をいただくにはどのようなプロセスを経ていく必要があるでしょうか。
信仰の初歩のような質問ですが、どうぞよろしくご教示ください。お願いいたします」
クリスチャンであるならば、自分が本当に救われているという確信をいつも持っていたいと思うのは当然のことです。キリストの救いが完全なものであるといくら信じたとしても、その救いがこのわたしに適用されるのかどうか、はっきりとした確信が持てないというのでは、毎日が不安です。
もちろん、この場合、命の書に自分の名前が記されているという確かな証拠を見ることができれば、誰でも自分の救いを確信することができるでしょう。しかし、残念ながら命の書に記された自分の名前を自分で確かめたことがある人はいないのです。
つまり、救いの確信というものは特別な啓示やしるしによって直接的に示されるというようなものではありません。もし、そのような意味での証拠を救いの確信のために求めているのだとすれば、今もこれから後も、決して救いの確信を得ることはできないことでしょう。
ところで、実際に救いの中に加えられているとしても、本人がその確信を持つことができるかどうかは別の問題ではないかという疑問もあるかもしれません。あるいはそもそも、人間は救いの確信を持つことができるのだろうかという疑問を持つ人もいるかもしれません。
例えば、ヨハネの手紙一の5章13節を見ると、「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」とヨハネは書いています。手紙の受取人は「神の子の名を信じるあなたがた」なのですから、当然すでに信仰を持っている人たちです。しかし、その人たちにヨハネは、「永遠の命を得ていることを悟らせたい」、つまり言い換えれば「救いの確信を持ってもらいたい」と書き送っているわけです。言い換えれば、クリスチャンになるということと、救いの確信を持つようになるということは必ずしも同時に起ることではないということが分かります。現にヨハネの手紙の受け取り人はキリストを信じていても、まだ永遠の命を得ていることを悟ってはいない人たち、つまり、救いの確信をまだ持っていない人たちなのです。
しかし、またここから同時に分かることは、ヨハネ自身、救いの確信は得ることのできるものだと言う前提でこの手紙を書いていると言うことなのです。
しかしまた、その反対に、実際には救いの中に加えられていないのに、自分は救われていると偽りやうぬぼれの確信を持つ人もいないとは限りません。申命記29章18節にはこう警告されています。
「もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、『わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ』と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる」
つまり、ほんとうは救いの祝福に与ってはいないのに、勝手な思い込みから偽りの救いの確信をもってしまうという場合です。ただその場合には「自分のかたくなな思いに従って歩む」というおおきな特徴がありますので、本人はいざ知らず、客観的にその人の偽りは明らかです。
さて、以上のことを考えると、救いの確信が持てないからといって、直ちにその人はほんとうは救われていないと断言することはできませんし、逆に救いの確信があるという言葉は、本人の勝手な思い込みにしか過ぎない場合もあるのです。ですから、高慢な思い込みを捨て去ると同時に、必要以上に自分の救いを疑うことから自分を解き放つことが大切なステップなのです。
ところで、聖書は救いの確信を単なる人間的な信念とは区別しています。何よりもそれは神の不変の約束に基づくものです。言い換えるなら、聖書に書かれている事柄を信じることを抜きにしては、救いの確信というものは得ることはできないのです。よく聖書を読むこと、聖書の中に約束されている事柄に注意深く目を留めること、そうしたことを怠らずに行うことが、救いの確信へとわたしたちを導くのです。
また救いの確信は現にわたしたちの中に実現している救いの恵みに基づくものです。つまり、聖書の約束は遠い将来の約束なのではありません。キリストによって現にわたしたちのうちにすでに実現したものです。しかも、それはただ単にわたしたちと関係のない世界で起った出来事なのではありません。その救いの業をわたしたちが信じ、受け入れているということ自体が、わたしたちの内側で起っている救いの恵みを証ししています。このようにすでに実現した救いの恵みの上に救いの確信は成り立っているのです。ですから、自分の内側に起るどんな小さな変化にも大きな神の恵みの業を見て取ることができるなら、それが救いの確信に繋がっていくのです。
さらに聖書は、こうした救いの確信は、聖霊の働きであると述べています。わたしたちが神の子であると言うことをわたしたちの霊と共に証をするのは聖霊です(ローマ8:15-16)。聖霊によって、神からの恵みとして与えられたものを知るようになるのです(1コリント2:12)。この聖霊の恵みに謙虚に信頼していくことで、救いの確信をはっきりともつことができるようになるのです。
以上のことを簡単にまとめるならば、救いの確信というものは、わたしたちがどれほど立派であるかと言うことに根ざしているものではないと言うことです。むしろそれは申命記に警告されているように、わたしたちを間違った確信へと導いてしまうものなのです。
聖書が教える救いの確かさは神ご自身の確かさにあるのです。神が救いを約束してくださり、神がわたしたちのうちに救いを実現し適用してくださり、そのことを聖霊によって確信させてくださるのです。
最後にコリントの信徒への手紙1章8節と9節を読んで結びとしたいと思います。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」