2007年12月5日(水)ご利益はいけない? 東京都 H・Kさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのH・Kさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「先生にお尋ねしたいことがあります。宗教論争というと大袈裟ですけど、ある新興宗教にハマっている友だちが、しつこくわたしを勧誘してきます。信じるといいことがあると、いろいろと『ご利益』(?)を並べてきます。確かにわたしは病気がちです。仕事もたくさんのお金になる仕事ではありません。結婚もこの年までできていません。そんなの大きなお世話だと思いながら、ちょっと痛いところを突かれているような気もします。
『そんなのご利益宗教じゃない』といって勧誘の手を払いのけようとしますが、反対に『ご利益宗教のどこが悪い』と詰め寄られてしまいます。
キリスト教では『ご利益』という言葉をあまり耳にしませんが、その辺のところ、どうなのでしょうか。友だちの言っていることがなんか腑に落ちません。それとも、わたしの心がかたくななのでしょうか。絶対、そんな誘いには乗りたくない、と思いながら、うまく言い返せなくて困っています。どう考えたらよいのか教えてください。よろしくお願いします。」

H・Kさん、メールありがとうございました。ご利益宗教のどこがいけないのか、キリスト教ではご利益という概念が無いのか、そのことをご一緒に考えてみたいと思います。

先ずはじめに「ご利益宗教」という言葉ですが、もともと「ご利益」という言葉は仏教の用語です。「利益(りやく)」というのは、仏法の修行で得た力によって恩恵を与えることを言います。自分を益することを功徳(くどく)と言うのに対して、他を益することを利益(りやく)と呼んでいます。そして、神仏の力によって授かる利益と幸福のことを特に「ご利益」と呼んでいます。
では、キリスト教では「ご利益」に相当するような概念はあるのでしょうか。あえて言えば、「神の祝福」「神の恵み」というのがそれに当るかもしれません。キリスト教の場合、特に「恵み」とは何かに対する正当な報酬というよりも、それに値しないものに対して、神のまったく自発的な憐みとして与えられるものをさして「恵み」と呼んでいます。

さて、ここからが大切な点ですが、「ご利益宗教」というときの「ご利益」というのは、先ほど説明した仏教用語としての「ご利益」というのとはちょっと違った含みがあるように思います。
先ほども言いましたが、ご利益というのは「神仏の力によって授かる利益と幸福のこと」です。それを得るためにはこちらの側の努力を多少は前提としているのかもしれません。しかし、ご利益宗教と言う場合には、ご利益を引き出すための努力にこそ最大の関心事があるという点に大きな特徴があります。とくに新興宗教の特徴としてご利益を強調する場合には、その努力とは端的にいって、いかに教団を利するかということです。具体的には教団のためにいくらお金を出せるか、教団のためにどれだけ信徒を獲得できるか、その見返りとしてご利益が保証されるということなのです。もちろん、そんなことを露骨に表明する宗教団体はありません。しかし、突き詰めていくと、ご利益宗教を中心に据えた新興宗教は、つまるところ、教団への献身と献金がご利益をもたらす手段ということになっているのです。

ご利益宗教が説く「ご利益」のもう一つの特徴は、ご利益を得ることができない場合の説明をするときに、いつもその原因を信仰心の足りなさに求めるという特徴があります。つまり、熱心に信じていないので、思った通りのご利益が得られないのだといって、その人の信仰心に問題があるとするのです。それをまともに受けとめれば、信者はますます熱心になって、もはや常識さえも失っていく事さえ起ってしまうのです。

ご利益宗教が説く「ご利益」の三番目の特徴は、ご利益の内容にあります。本来ご利益とは「神仏の力によって授かる利益と幸福のこと」ですから、「利益と幸福」の内容はこれといって決まっているわけではありません。ところが、ご利益宗教の場合、人の不幸や不安がそのご利益の材料となっているという特徴があります。貧乏で苦労している人にはお金を約束し、病気で苦しんでいる人には癒されることを約束し、結婚できないでいる人には、結婚相手が見つかることを約束します。さらにエスカレートすると、ご利益を約束するために、相手の不幸につけこんだり、相手の不安を煽ったりすることもしはじめます。そうなってくると、相手の幸せを心から願っているのか、相手を脅迫して仲間に加えることで、自分の功徳を積もうとしているのか、本末が転倒してきてしまいます。
しかも、このようなご利益ばかりを強調していると、相手の存在そのものを否定する結果にもなりかねないのです。体が不自由であることはあたかもいけないことのように決め付けてしまったり、結婚できないということが何か不完全な人間であるかのような印象をあたえてしまったり、そういうことが起るのです。やがてそれは目の前にいる人を根本から人間として受け入れようとしない態度を生み出していくことにもなりかねません。

こういった意味でのご利益を無感覚になって説きながら、「それのどこがいけないのか」という発言は居直り以外の何ものでもないと言えるでしょう。

キリスト教的な観点から見て、目の前にいる人が神によって利益と幸福を得ることができるようにと心から願うこと、そのこと自体は決して悪いことではありません。聖書はたとえその相手が敵であったとしても祝福することを求めています。

ただ、その幸せの代価を相手に強要しはじめたり、期待した幸せを得ることができなかったときに、その人の信仰の足りなさにその原因を求め始めるならば、それはまさしくご利益宗教となんら変わるところがなくなってしまいます。

また、「利益と幸福」をこの世だけの尺度で測らないということも、キリスト教の観点からは大切なことです。イエス・キリストは貧しい人たちの幸いを教えました。悲しんでいる人たちの幸いも教えました。その教えの意味を真面目に考えることも大切なのです。貧困の意味、悲しみの意味、病を得ることの意味、その一つ一つを考えることを飛ばして、安易な利益と幸福を求めることはできないのです。