2007年11月28日(水)神の存在について 群馬県 T子さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は群馬県にお住まいのT子さん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。わたしは素朴に神様はいらっしゃると思っています。ところが、神様がほんとうにいるのか証明して欲しいといわれると、うまく答えることができません。今すぐ神様がここに姿をあらわしてくだされば、きっと誰もが納得いくと思います。先生は神様の存在について色々な人から尋ねられることが多いと思いますが、どんなふうにお答えになっているのでしょうか、教えてください。」
T子さん、ご質問ありがとうございました。確かに目の前に神様が姿をあらわしてくださったら、苦労して伝道などしなくても、誰でも簡単に神様を信じてくれるような気がします。ところが、ちょっと考えてみると、どうもそれはそんなに簡単ではないように思うのです。
例えば、今からおよそ二千年程前、イエス・キリストは人間の形をおとりになってこの世に姿をあらわしてくださいました。そのイエス・キリストについてヨハネ福音書はこう書き記しています。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)
つまり、神の子イエス・キリストこそ、具体的な形で神の存在をお示しになったお方であると言うことができると思います。確かにイエス・キリストを通して今までたくさんの人たちがまことの神を信じるようになりました。ところが、イエス・キリストの時代でさえ、同じイエスの姿を見て、こう嘲った人もいたのです。
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)
人々は目の前にいるイエスを、自分のイメージする神やキリストとと比較して、イエスという人物を判断したのです。いいかえるなら、例え今この場に神様がその姿をあらわしたとしても、その姿を見る人が、自分の心に描く神と目の前の存在とのイメージとが合致しない限り信じることは決してないのです。
さて、ここからが問題なのですが、それぞれの人が描いている神のイメージというものは一体どこから来ているのでしょうか。その人はどこかで神の姿を見たことがあるのでしょうか。それとも、自分で作り出したイメージで神様のことを考えているだけのことなのでしょうか。そう考え始めると、神の存在を証明するよりも前に、神とはいかなるお方であるのか、その定義の方が大切であるように思うのです。ところが、既に存在が証明されているものについては、それがどんなものであるのか定義することはできても、いるのかいないのかわからないものについて、いったい人はそれを定義することなどできるのでしょうか。
もっと簡単にいってしまえば、こんなふうに言うことができると思います。
今ここでお話をしているのは山下正雄という人物です。ラジオやインターネットで声だけを聞いている人にとっては、その姿を見たことがいない人がほとんどです。もし、意地悪な誰かが、「あの話をしているのはほんとうに山下正雄なのか」と疑問に持ち始めたらどうでしょう。もちろん、その人の目の前に言って、「わたしだ」といって自分を証明すれば済むことのように思います。
ところが、さらにその人から「なるほど、声はそっくりだが、あなたがほんとうに山下正雄ならもっとハンサムでかっこいいはずだ」などといわれてしまったらどうでしょう。わたしはその人の描いているイメージに自分を合わせるように努力して、自分が山下正雄であることを信じてもらうべきでしょうか、それとも、その人の麗しいイメージを一度壊してもらって、ここにいるのが山下正雄であることを納得してもらうべきでしょうか。答えは、当然後者のはずです。
ところが、神について人間が考えるとき、なかなかそうは行かないのです。それぞれが自分の描く神のイメージで、神はこうあるべきだと言って譲らないのです。そして、さらに厄介なことに、その自分で作り上げたイメージで判断して、神は存在するとかしないとかおかしな議論を始めているのです。
T子さんももうお気づきになったと思いますが、人間は神についてその定義も存在の証明もすることはできないのです。人間がしていることは、自分がそれぞれに神のイメージを作り上げていることと、そのイメージに従って、そのようなものがいるかどうか、その可能性の是非を議論しているに過ぎないのです。
では、聖書の神も結局は同じように人間がイメージしたものに過ぎないではないか、と言われてしまうかもしれません。確かに聖書の神がまことの神であることを証明する手立てはありません。しかし、次のことだけは是非頭の中に留めておいてほしいのです。
先ず第一に、キリスト教では人間が描く神のイメージはすべて当てにならないという信念があります。もし、神について人間が知ることができるしたら、それは人間が観察の結果知り得た知識ではなく、神ご自身がに人間にご自分をお示しになったからだと考えます。キリスト教ではそれを「啓示」と呼んでいます。つまり、神は神ご自身の啓示によってしか知ることはできないのです。啓示によらないものは人間の妄想や空想でしかないのです。
第二に、そのように啓示によって示された神は、神の全体像では決してないということを、キリスト教は信じています。なぜなら、神は無限のお方なのですから、有限である人間はそのすべてを捉えることができないからです。もっとも、そうして得た知識は不完全ではありますが、人間が神を知るためには必要で十分な知識です。
第三に神がご自身をお示しになる啓示は、聖書という書物の中に必要十分に記されているということをキリスト教は信じています。従って、まことの神について知りたいと思うなら、聖書を通してこの神と出会うより他に方法はないのです。
神の存在についての議論はどこまで言っても平行線であることは、残念ながらこの先もずっと変わらないだろうと思います。しかし、もし神の存在について知ろうと心から願うのであれば、聖書を通して神ご自身が十分に語って下さいます。それには、何よりも先ず自分が描いてきた神のイメージを白紙に戻すことが大切です。その上で、聖書の中でご自分を語ってくださる神の言葉に耳を傾ける必要があります。そのことができたとき、神の存在は自明のこととなるはずです。