2007年11月7日(水)なぜよい人の上にも不幸や災いが? ケンさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ケンさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を感謝して聞いています。
さて、イエス・キリストは天の父なる神は善人にも悪に恩にも情け深いお方であるとおっしゃっています。悪い者の上にも正しい者の上にも日を昇らせ、雨を注いでくださっているからです。そのことはなるほどそうだと思います。
しかし、災いや不幸な出来事のことを考えると、天の父は悪い者の上にも正しい者の上にも災いを下さないと言うことができるでしょうか。現実の世界ではある人に災いが下り、他の人に災いがくだらないのは、その人が正しい人であるかどうかということと関係なさそうに思われます。正しい人も正しくない人も災いに遭遇することがあるのが現実の世界なのではないでしょうか。
そればかりか、もっと酷いことには、現実の世界では正しい者の上に災いが下り、悪い者たちの上には災いがくだらないという場合さえあります。そんな現実の世界を考え始めると、なぜだろうと思ってしまいます。
雨や太陽のことを考えると神様は善人にも悪人にも等しく慈悲深いお方であることが分かります。それなのに、ひとたび現実の世界の災いや不幸な出来事に目を留めると、神様の慈悲深さがさっぱりわからなくなってしまいます。一体これはどういうことなのでしょうか。なぜ神は正しい者の上にも災いや不幸な出来事をもたらされるのでしょうか。」
ケンさん、メールありがとうございました。どうして正しい者が不幸な目にあい、悪しき者たちが羽を伸ばして安泰でいることができるのか、という疑問は聖書の時代からある古くからの問題です。その典型的な例は詩編73編に記されています。そこでは詩人は現実の世界を見てもう少しで躓きそうになったと記しています。詩人が見た現実の世界は、悪しき者たちが死ぬまで苦しみを知らず、からだも肥えている世界です。だれにもあるはずの労苦すら悪しき者にはなく、だれもがかかる病すらも悪しき者には触れない世界です。この詩編の作者が見た世界というのは、何も決して特殊な世界ではありません。それはどんな時代にも、どんなところにも見られる現実の世界です。こう言う現実をみていると、この詩編の作者でなくとも信仰が揺らぎ、躓いてしまいそうになります。
こうした問題をいったい詩編73編の作者はどうやって乗り越えたのでしょうか。この詩編の作者はこう述べています。
「わたしの目に労苦と映ることの意味を 知りたいと思い計り ついに、わたしは神の聖所を訪れ 彼らの行く末を見分けた あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え 彼らを迷いに落とされるのを」
その答えは「神の神殿を訪れた時に、彼ら悪人の最後を見分けた」というものです。神からの特別な啓示によってなのか、心の中の確信によってなのかは分かりませんが、最後までこの矛盾は解けないものではないということがわかったというのです。
この詩編の作者の言葉には問題を解く上での大切なヒントがあります。この詩編の作者は現実だけを見つづける事を止めて、神のもとを訪ねたと言うことです。わたしたちにとって神を訪ねるというのは礼拝の場がそうでしょうし、また、礼拝で解き明かされる聖書の言葉に耳を傾けることがそうでしょう。神の聖所を訪れるとはそういうことでしょう。
これは大変馬鹿げていることのように思われるかもしれませんが、実はとても大切なことなのです。
確かにこの世の考え方からすれば、現実こそが答えであるかもしれません。しかし、現実の世界というのはあくまで人間が知ることができる世界でしかないのです。その一部分の観察だけから何かを結論づけることは大変危険なのです。
たとえば、旧約聖書創世記に出てくるヨセフのことを考えてみましょう。ヨセフは兄弟たちに憎まれ、穴に投げ込まれてしまいます。その上にエジプトに売り飛ばされてしまいます。売り飛ばされた先のエジプトでもさらに災難が続きます。ヨセフは姦淫の罪を犯そうとした悪い人間だと誤解され投獄されます。ここまでのヨセフの身に起った出来事を現実から考えるならば、誰しもヨセフの人生は幸福に満ちた人生とは考えないことでしょう。それどころか、なぜ、正しいヨセフにこんなにも理不尽なことが起るのかという疑問すら抱くはずです。
しかし、ヨセフの人生の後半は観てみると、こうした不幸な出来事は、たとえ人間の罪から出てきたことであったとしても、それすらも神が豊かに用いて、イスラエルの一族に祝福をもたらす結果となっているのです。
ですから、誰しも、今という現実の断片だけを見て、物事の全体をわかったように思ってはならないのです。
もちろん、わたしたちは神ではないのですから、将来を見ることなどできません。どんなに頑張っても将来を予測することぐらいしかできません。しかし、わたしたちにできることは信仰によって神の約束を信じて希望を抱くということです。
聖書は神が信じる者たちを扱う扱い方はこうであると述べています。有名なローマの信徒への手紙8章28節です。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
今見える現実の世界の一断片からすれば、この神の約束はとても現実離れしたことのように移るかもしれません。しかし、今見える現実から将来のことまでも失望し疑うのではなく、今見える現実が失望に満ちたものであるからこそ、神の約束の言葉を信じて、将来を確信するのです。
もし、わたしたちからこうした信仰の目をなくしてしまったとしたら、憐み深く、恵みに富んだ神様の姿はいくら現実の世界を捜しても見出すことは難しいのです。もちろん、信仰の目をもって捜すときに、この現実の災い多い世界にも神の恵みはいくらでも見出すことができるのは言うまでもありません。しかし、それ以上に、将来約束されている世界にはさらにもっと多くの恵みが満ち溢れているのです。その世界の到来を見届けないで、その世界の到来を信じることをしないで、恵み深い神について疑うことは、まったく空しい判断といわざるを得ないのです。
もう一度繰り返しますが、神の約束の言葉を信じて歩む者だけが、災いが下る意味を受け止め、約束された将来の恵みに望みを置いて歩みつづけることができるのです。