2007年10月3日(水)湧き水を飲むことについて ハンドルネーム・akiさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームakiさん、女性の方からのご質問です。今週も「SNSぱじゃぱじゃ」のコミュニティ掲示板への書き込みから取り上げさせていただきます。
「私の地元は、おいしい湧き水の出る場所がたくさんあります。ただ残念なことに神社と関係のある湧き水が多いのです。順序を考えれば、おいしい湧き水があって、そこに神社を作ったのだと思うのですが、神社と直接関係のある湧き水を飲む気持ちになれません。神社と直接関係のない湧き水もあるので、そちらを飲みたいと考えているのですが、そういう考え方で良いのでしょうか?
コリントの信徒への手紙1の10章23節から33節までの箇所を読んでどうあるべきか考えています。アドバイスいただけると幸いです。よろしくお願いします。」
akiさん、「SNSぱじゃぱじゃ」への書き込みありがとうございました。日本に限らず、宗教の始まりというものは何かしか不思議な自然現象や自然の恵みと関係していることが多いように思います。
ちょっと話がそれてしまいますが、新約聖書の使徒言行録の中にキリスト教ともユダヤ教徒もまったくなじみのない人々にまことの神について伝えたパウロの説教が記されています。その説教を読むとパウロがそういった人たちにどんな切り口で説教をしたのかとても興味深い示唆が与えられます。
そのうちの一つは最初の伝道旅行でパウロやバルナバのことをギリシャ神話の神々の到来だと勘違いした人々を制して話したパウロの説教です(使徒言行録14:8-18)。
「…神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」(13:16-17)
この話で興味を引くのは、異邦人たちが信じているものはまことの神ではないということをただ主張するばかりではなく、自然の恵みの中にまことの神の存在を知るチャンスがあったということを指摘している点です。つまり、誰もが知っている雨や食べ物という具体的な恵みを通してまことの神に人々を導こうとしているということなのです。もしパウロが神社の湧き水をみたとしたら、ただそれを間違った信仰と否定するばかりではなく、その湧き水をもたらしたまことの神のことを話し始めただろうと思います。
さて、話をもとに戻しますが、キリスト教の世界からみれば、日本は正に異教の国ということができるでしょう。そして、その異教の国で生活するクリスチャンにとっては、宗教的な摩擦や葛藤を避けて通ることはできません。しかし、考えてもみれは、それはキリスト教にとって異常な世界に生きているというよりは、むしろ、キリスト教会は最初からこうした摩擦や葛藤と向き合ってきたのだと思います。キリストの福音がギリシア・ローマ世界に入っていくに従ってどうしても避けて通ることができない問題だったはずです。
ご質問の中でも触れていらっしゃいましたが、コリントの教会では異教の神に捧げられた供え物の肉について、クリスチャンとしてそれとどのようにかかわるべきか、という問題でコリントの教会の中に少なからず波風が立っていました。
「我々には知識がある」と自称する人たちは、そもそも偶像などいないのだから、それに捧げられた肉を食べたからといって、信仰的に何も問題がないと考えている人たちでした。
他方、「弱い人たち」と呼ばれる人たちは、偶像に備えられた肉を食べることで何がしかの影響を受けてしまうことを恐れて、そうした肉を食べることを避けていた人たちです。
パウロはこの問題について、自分ならどうするのか、という一般的な原則をまず述べています。
「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(1コリント8:13)
自由にかかわる問題であるなら、あえて兄弟をつまずかせてまでなすべきではないというのがパウロの立場です。強いられてそうするのではなく、兄弟への愛からそうするのです。
ところで、偶像に備えられた肉を口にする状況というのは三つぐらいの状況が考えられます。一つは異教の神殿そのもので行なわれる宗教的な宴会で肉を口にする場合です。もう一つの場合は、いったん偶像に備えられた肉が市場に出回っているのをそれとは知らずに買ってきて食べる場合です。三つ目の可能性は、ノンクリスチャンの家庭に招かれていった場合に、そこで出される肉が、偶像のお下がりの肉であった場合です。
一番目のケースについては、わざわざ異教のお祭りに出向いて行って、そこで偶像に備えられた肉を食べるということはクリスチャンにとってはありえないことのように思えるかもしれません。しかし、コリントの教会にはどうもそういう人もいたのかもしれません。つまり、偶像などいないのだから、ほんとうの神さえ信じていれば、形式的に儀式に参加して食事をしたとしても、何も問題がないと思っていた人たちです。そればかりか、そう思わない人の前で、わざわざ自分の信仰を誇示して異教の行事に参加していたのかもしれません。
これについては、先ほど引用したパウロの一般原則から考えると、まさに「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」ということに尽きるのでしょう。
しかし、パウロはそれだけに留めず、いくら偶像が実在しないからといって偶像の宮で宗教的な宴会に参加することは、明らかに偶像礼拝にあずかるものであると断罪します。
これをご質問の湧き水の話で置き換えて考えるとすれば、あえて宗教的な施設の中で、しかも宗教的な意味付けがなされる場面でその水を飲むとすれば、これは偶像礼拝に参加するのも同然だと非難されても致し方ないことでしょう。
しかし、二番目のケースのように、いったん神社を離れて売られているものであれば、いちいちその出所について詮索する必要はないのです。もっとも、いくら宗教的な施設を離れて街中で売られているとしても、宗教的な意味付けがなされているものであれば話は別です。
問題は三番目のケースです。ノンクリスチャンの家の食事に招かれていって、偶像に備えられた肉が出てくる場合がないとは限りません。
しかし、パウロはその場合でも、肉の出所を一々問題としないで、食事として食べてもよいとしました。ただし、誰かがその肉の宗教的な意味を問題にした場合には、食べるべきではないとしたのです。
ご質問の湧き水の問題で置き換えて考えれば、どこの家に行っても出される水を一々詮索する必要はありません。しかし、その水が宗教的な意味合いを持つ水であると告げられた場合には、その人のために飲まないというのが聖書の教えです。
異教とのかかわりはとても難しいものがあります。一つ一つのことをしっかりと見極めて行動する賢さを与えられたいと心から願うものです。