2007年9月26日(水)原書に近い翻訳は? 兵庫県 ハンドルネーム・たなかくん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのハンドルネーム・たなかくん、男性の方からのご質問です。今回は「SNSぱじゃぱじゃ」のコミュニティ掲示板への書き込みです。
「日本で有名な聖書は口語訳、新共同訳、新改訳がありますがどの聖書訳が原書にいちばんちかいんでしょうか」
ハンドルネーム「たなかくん」さん、掲示板への書き込みありがとうございました。
ご質問にお答えする前に少しだけ「SNSぱじゃぱじゃ」についてお話しさせてください。ラジオを聴いていらっしゃる方は、「なんじゃそれ?」と思われる方がほとんどだと思います。
実はこの番組を提供しているキリスト改革派教会メディアミニストリーでは、今年の春から新しいウェブサイトを始めました。いつも番組の最後に紹介しているホームページ「ふくいんのなみ」の姉妹サイトにあたります。ただ、今までのホームページとは違って、参加者全員が互いに貢献し合って作り上げていくSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)と呼ばれるものです。番組の最後にもう一度ご案内したいと思いますが、pajapaja.jpでアクセスすることができます。ただし、完全招待制となっていますので、参加されたい方はメールをください。折り返し招待状をお送りします。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、早速ご質問にお答えしてみたいと思います。
とても短い簡略なご質問なのですが、答えの方はそんなに簡単ではありません。簡単でない理由は大きく言って二つあります。まず一つはご質問の中に出てくる「原書」という言葉が何を意味するかという問題です。原書をオリジナル・テキスト、つまり聖書の作者が書いたそれぞれの「元々のテキスト」という意味にとるとすれば、どの翻訳聖書が原書に一番近いかは聖書翻訳自体の問題ではなくて、その翻訳聖書が用いた校訂本が何であったかに大きく依存するからです。
英語圏でもっとも長く愛用され、また多大な影響を与えて来たKing James Version、またの名を「欽定訳聖書」ともいいますが、とても格調高い英語で知られています。しかし、この翻訳聖書と現代日本語訳聖書の代表格である口語訳、新共同訳、新改訳の三つと比べると、明らかに違う部分が多々あることに気がつくはずです。たとえば、ヨハネの手紙一の5章7節8節は新共同訳聖書ではこう訳されています。
「証しするのは三者で、”霊”と水と血です。この三者は一致しています」
口語訳も新改訳も若干の言葉遣いの違いはあっても、意味は同じ訳です。
しかし、同じ部分を欽定訳聖書で読むと、まったく違うことが書かれています。欽定訳聖書では7節に「天で証しをするのは三者で、父と御言葉と聖霊である。この三者は一致している」と書かれており、さらに8節では「地上で証しするのは三者で、”霊”と水と血である。この三者は一致している」と続きます。
つまり、天で証しするものが三つ、地上で証しするものが三つ、と天と地でそれぞれ三つずつ証しするものがいるのです。ところが、現代日本語訳の聖書はどれも天上と地上の区別については記しておらず、ただ「”霊”と水と血」の三つの証しについて記しているだけです。
いったいどの翻訳が正しいのかと問われるならば、どちらも翻訳の際に用いた聖書の校訂本には忠実な翻訳です。違うのは使った校訂本が異なっているということです。
しかし、校訂本といっても、もともとの聖書記者が記した原書そのものではありません。残念ながら元々の聖書記者が最初に書いたものは今となってはすべて失われています。あるのは膨大な数に上るオリジナル言語の写本と、これまた膨大な数に上る古代語訳の写本です。そうした写本を照合検討して、本来のテキストに復元する作業の学問を本文学と呼んでいます。残念ながら欽定訳時代には聖書本文学がまだ不十分であったので、質の良い校訂本ではなかったのです。
良質の校訂本という意味では学問の進歩と新しい写本の発見によるところが大きいのですから、時代が下るにつれと校訂本の質も向上しています。そういう意味では一番新しい翻訳である新共同訳聖書が一番質がよい校訂本を使っているので、原書に一番近いといえるかもしれません。
しかし、聖書本文学は、単に写本を古い順に並べて、どれが一番古いかで正しい本文を復元しているわけではありません。時には時代的に新しい写本であっても学者の判断でより本来のテキストに近いと判断されることもあります。そして、その判断自体に聖書解釈が含まれることもあるのです。ですから、新しい校訂本だから一版前の校訂本より単純に優れているとは言えないのです。そこが難しいところです。
質問に簡単に答えられない難しさのもう一つの理由は、「原書に近い」という場合の「近い」とは何を意味するかという問題です。
聖書の翻訳に限らず、どんな書物でも翻訳という作業はそれ自体が翻訳者の解釈を含むものです。言い換えれば翻訳とは解釈することなのです。この場合の解釈というのは、文章レベルの解釈はもちろんのこと、単語レベルでも解釈を含みます。
有名な話ですが、16世紀に日本にやってきたキリスト教の宣教師たちは聖書の「愛」という言葉をどう日本語に訳すべきか大変苦労したそうです。「愛」と翻訳してしまえばそれは当時の日本語では「男女の愛」という意味にしかとられなかったからです。そこで苦労して「神の愛」を「神の御大切」と訳したそうです。
では、「神の愛」という訳語を使った現代語訳聖書と、当時宣教師たちが使った「神の御大切」という役ではどちらが原書に近いと言えるでしょうか。
聖書翻訳の場合、どちらかというと字義どおりに翻訳される方が、より原書に近いと考えられがちです。できるだけ同じ単語はそれに相当する同じ日本語を訳語を統一するように努力します。そして、そういう翻訳が原書に忠実な翻訳だと考えられがちなのです。
しかし、単語を移しかえただけでは、そもそも意味が通らないものもあります。文化や習慣が違うのですから、それは当り前です。そういった文化の違いからくる表現の違いは当然文化的な翻訳作業がなされます。たとえば、新約聖書には「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」(ローマ16:16)とありますが、その部分を「聖なるお辞儀によって互いに挨拶を交わしなさい」と翻訳した場合、原書から離れてしまったといえるのでしょうか。
文化的な違いでない場合にも、翻訳には解釈が入ることがあります。たとえば、ヨハネの福音書1章14節は有名なロゴスの受肉についての言葉です。新共同訳は文字どおりに「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と訳しています。同じ個所を新改訳は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」となっています。「肉となって」という意味を新改訳は「人となって」と解釈して翻訳したわけですが、いったいどちらの役が原書に近いといえるかは一概に決めることはできないのです。
というわけで、この三つの現代語訳の日本語聖書に関して言えば、それぞれに一長一短があるのですから、どれを読んだとしても、そんなに大きく違うと言うことはないはずです。