2007年9月19日(水)祈りについて 千葉県 H・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのH・Kさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「主の御名を賛美いたします。
山下先生、いつも番組やCDで先生のお話を聞かせていただいております。ありがとうございます。
きょうは先生にお尋ねしたいことがあり、お便りいたしました。それは祈りについての質問です。
わたしはもう還暦を越え、記憶力も衰えてきており、聖書を読んでもなかなか頭に入ってはきません。それでも、祈ることだけはずっと続けております。ですが、よる年波には勝てず、何を祈ったのか忘れてしまうこともしばしばです。
そこで最近は祈りの課題を思いつくままノートに書き留めておき、それを祈ることにしています。ところが、だんだんと祈りのメモも長くなってしまい、祈りの時間が長引いています。どうせ、これといってすることがないのですから祈れる時間に祈っておればよいのでしょうが、疲れてしまうこともしばしばです。
せっかくある祈りの課題を祈らないというのも申し訳ない気がして、しかし、いったいいつまで同じことを祈りつづけるべきなのか、どうも迷ってしまっています。
祈りとはいったいなんなのか、何をいつまでいのったらよいのか、聖書にヒントでもあれば教えていただきたいと思います。よろしくお願いします。」
H・Kさん、お便りありがとうございました。読んでいてH・Kさんの日々の祈りの生活が目に浮かぶようでした。ゆっくり祈る時間が持てるということは素晴らしいことですね。また、そのように祈っていただける方が教会にいるということは、祈られている者の立場からしても嬉しいことです。
さて、さっそくご質問を取り上げたいと思いますが、祈りのノートをつけていくというのはとてもよいアイディアだと思います。学生時代のことを思い出しましたが、いくつかの小さなグループ祈っていたことがありました。それぞれ祈りの時間が違っていましたが、共通した祈りのノートをつけていたので、どのグループが何を祈っているのか、一目瞭然でした。祈りの課題を分かち合うこともできました。また、その祈りがきかれたかどうか、それも知ることができました。
何も記録していないと、何を祈ってきたのか、それがどんな風に聞き挙げられたのか、あるいはた違った形で答えられたのか、考えることもなく祈りっぱなしになってしまうということがあります。ですから、祈りの課題ノートはとてもよいアイディアだと思います。
けれども、H・Kさんの場合、そのノートがだんだんたくさんの課題でいっぱいになって、一回のお祈りの時間ではとても祈りきれないほどになってしまったということなのでしょうか。確かに、祈る課題があるということは、全然ないよりずっと神様の恵みを実感できる機会を与えてくれると思います。しかし、それでも、あまりにその数が多くなりすぎれば、祈る課題を選ばざるを得ないと思います。せっかくあるたくさんの課題を祈らずに過ごしてしまうというのは、ちょっと後ろめたい気もするかも知れません。だからといって、一つ一つの課題を毎日お題目のように均等に唱えていればよいというものでもないでしょう。
一人一人に与えられている時間は24時間です。24時間を何のためにどれだけ使うかは、一人一人違って当然です。「一日に何時間祈らなければいけません」というようなルールを決めることはできません。それぞれ自分に与えられているなすべきことを考えに入れながら、祈りにあてる時間を各自が信仰をもって決めるべきです。
一日のうちに祈りに割り当てることができる時間が定まれば、どの課題をどれだけ時間をあてて祈ることが出来るかも決まってきます。優先順位の高いもの、緊急性のあるものから祈り始めるというのも一つの方法です。限られた時間の中で祈りの課題を取捨選択して祈るということは大切です。
あるいは、曜日によって、時間によって祈りの課題を分けるということもできるかもしれません。たとえば、月曜日は教会員のために、火曜日は家族のために、水曜日は会社や学校の人のために、木曜日は政治を行う人のために、などなどです。
祈りきれない課題が出てきてしまうことは残念な気持ちになるかもしれませんが、しかし、わたしたちの心のうちにある思いも神様はご存じであることを信頼して、祈りきれなかった課題を神様におまかせすることも大切だと思います。また、わたしの他にも必ず誰かが同じ課題について祈っていると他のクリスチャンの祈りに信頼することも大事です。誰かが祈っているだろうと無責任になることはいけませんが、わたしが祈らなければ世界が滅びると思うことも行き過ぎです。
さて、クリスチャンの祈りにとって一番難しいと思うのは、どこまで祈るべきかという問題だと思います。イエス様の譬え話を読んでいると、熱心に続けて祈ることの大切さを教えているように思われるものがあります。例えば理科による福音書の11章5節以下に出てくるたとえ話がそうです。イエス様はその譬え話の中でこうおっしゃいます
「友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」
あるいは同じルカによる福音書18書では「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」、裁判官とやもめの譬え話をお話になりました。
確かに祈りが聞き挙げられるまで祈りつづけることは大切なことです。しかし、祈りの聞き挙げられ方は、わたしたちの願った通りではないこともあるということも念頭においておかなければなりません。祈りは、祈り求めたとおりに答えられる時もあります。しかし、パウロが自分に与えられた刺を取り去って欲しいと願った時には、その願いは聞き挙げられませんでしたが、パウロが弱さの中でも十分に働くことができるように十分な恵みは与えられました。
ですから、祈ったとおりに聞かれないからといって、祈りつづけることが良いとは限らないのです。時には祈りが聞かれないことも祈りの答えとして受け止めなければならない場合もあります。
あるいは、祈りの答えはずっとあとになってから与えようとしている場合もあります。そのときには忍耐を持って待つことが求められているのです。
しかし、いずれの場合も、人間にそれを判断することは簡単ではないかもしれません。しかし、それを見極めていくことも信仰の成長の一つです。どのように神様が祈りに答えて下さるのか、イエスなのか、ノーなのか、待てなのか、あるいは違った形なのか、いつも祈りの答えに目を注ぐことも祈る以上に大切なことなのです。