2007年9月5日(水)宣教は神の業?人の業? ハンドルネーム 山羊さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム山羊さん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつもリスナーからのご質問に分かりやすく答えてありがとうございます。わたしにも前々から一つの疑問があって心の中でもやもやとしています。きょうはそのことについて先生にお尋ねしたいと思い、メールしました。
その疑問というのは、伝道とか宣教というものが、果たして人間の努力に掛かっているのか、それとも神様の御手の中にあるのか、ということです。
伝道熱心な人たちは、その伝道の相手の人はいつ死ぬかわからないのだから、今日という日に伝えなければならないということをよくおっしゃいます。確かにそうだ、と伝道の大切さを思います。
しかし、よくよく考えてみると、わたしが伝えなければその人は滅んでしまうと考えてしまうと、伝道とは結局わたしの努力次第ということになってしまうようですし、そんな責任はわたしにはとても負いきれないと思います。
それと、ちょっと見方を変えると、結局、伝道や宣教の成功は人間の勲章のようになってしまうのではないでしょうか。果たして伝道の失敗はその人の責任だということになれば、田舎伝道で苦労している人たちの苦労とは一体何なのだろうかと思ってしまいます。
しかし、反対に、伝道がすべて神様の責任だと思ってしまうと、伝道してもしなくてもどうでもよくなってしまう気がして、意欲がそがれてしまうのではないかと、それもまた腑に落ちません。
伝道や宣教というのは、結局のところ人間の業なのでしょうか、それとも神様の業なのでしょうか、それとも両方の協力なのでしょうか。そこのところがうまく理解できずにもやもやとしています。よろしくおねがいします。」
山羊さん、メールありがとうございました。伝道の働き、宣教の業というのはとても大切な働きですが、その捕らえ方によっては、ずいぶん責任重大なものになったり、無責任なものになったり、あるいは人を傲慢にさせてしまうものになったりと、理解の仕方がとても大切な事柄のように思います。
実は、山羊さんと同じように、わたし自身も伝道のことについていろいろと悩んだ時代がありました。おっしゃる通り、何もかも人間の努力にかっかっていると言ってしまうと、伝道に失敗した時の人間の責任が重大になりますし、逆に成功した場合には人間を必要以上に傲慢にしてしまう危険があります。反対に、すべてが神の御手のうちにあると言い切ってしまえば、わたしたちが伝道する意味がなくなってしまいます。結局それはしてもしなくても結果は同じだということになってしまうからです。しかし、それは何だかずいぶんと両極端なものの考え方のような気がします。
そもそもなぜ教会はキリストの福音を宣べ伝えるのでしょうか。その最大の理由は、主イエス・キリストご自身がそのことを命じられているからです。
マタイによる福音書28章18節以下にこう記されています。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
まずここで重要なことは、福音を伝えることがキリストによって命じられているということです。ここでは、その成果についての評価や責任については触れられていません。この命令をとにかく誠実に果たすことが大切なのです。目覚しい成果をあげてもあげなくても、この命令には忠実であるべきなのです。
使徒パウロのテモテに宛てた手紙の中で、こう言っています。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(2テモテ4:2)
人間というのはどうしても自分の都合を最優先させがちなものです。そして、何についても自分の都合の良いように理由をつけたがるものです。伝道がうまくいかないときには、すぐに神の計画や御心を持ち出して、「それは神の御心ではないからうまくいかないのだ」といって簡単に諦めてしまいがちです。あるいは反対にうまくいっているときには神の計画や御心がすっかりどこかに消えうせて、自分の功績を称えたり、うまくいかない人たちを簡単に裁いてしまったりしがちです。
しかし、伝道することが第一に神の命令であり、しかも折が良い時も悪い時もあることが前提にあるのであれば、成果そのものからすべてを判断すべきではないのです。むしろ、どれだけ困難の中にあっても、キリストの命令に忠実であろうとしたか、そここそが大切な点なのです。
さて、伝道や宣教というものが、キリストの命令にその実践の根拠を置くとしても、伝道する動機はただ単にそれがキリストの命令だからというばかりではないはずです。キリストがさまよう人々を飼う者のない羊のようにご覧になって深く憐れまれたというお手本があります。福音を宣べ伝えるのは、隣人への愛という大きな動機が必要です。
「きょうこの人に福音を伝えなければ、2度とチャンスはないかもしれない」という思いが、隣人愛から出ているのであれば、それはとてもよい伝道の動機だと思います。しかし、自分の功績を積みあげることが目的だとすれば、それは決してよい伝道の動機とは言えません。ほんとうに愛から出る伝道は、待つことも忍耐することもあるはずです。パウロはその手紙の中で「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」(1コリント13:4-5)といっているからです。謙遜になって自分の働きを他の人に委ねることもまたできるはずです。
伝道は神の働きか人間の働きか、という二者択一をせまるのは、決して物事を正しく理解する視点とはなりえません。確かに神の御手のうちにないことは何一つとしてないのですから、伝道に限らずあらゆることが神の働きといえば、その通りです。しかし、その神の働きの中で、何が神によってわたしたちに命じられ、期待されているのか、そのことを先ずしっかりと捉えるべきなのです。そして、そのことを神への愛と隣人への愛を動機として実践することが何よりも大切です。結果としてよりよく神を愛し、神の栄光を表すことができたか、よりよく隣人を愛し、自分を神の器として捧げることができたか、そのことを謙遜に思うことができれば、それで十分なのではないでしょうか。