2007年8月22日(水)キッパについて、ヘブライ語について 千葉県 S・Sさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのS・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「主の御名を賛美いたします、いつも質問に丁寧に答えてくださってありがとうございます。
二つのことをご質問いたしたく、お葉書を書きました、一つは、キッパのことについてです。キッパはユダヤ人の男性の方が頭にかぶる直径12センチぐらいの円形の帽子のことです。キッパは何のためにかぶるのでしょうか。また聖書のどこかにキッパについての記述はあるのでしょうか。主イエス様は、キッパをかぶられておられたのでしょうか。
二つ目の質問は5月16日のBOX190の番組で、主イエス様は何語を話しておられたか、聖書に書いていないと放送されていましたが、使徒言行録26章14節でパウロがご復活された主イエス様に声をかけられたときヘブライ語で『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか』といわれたと書いてあります。これはどうなのでしょうか。
よろしくお願いいたします。」

S・Sさん、いつも番組を聴いていてくださってありがとうございます。興味深いご質問をいただいて嬉しく思います。とくに二つ目のご質問は、放送に対する鋭いレスポンスですので、とても感謝しています。いつもよく番組を聴いていてくださっているS・Sさんの姿勢を垣間見る思いがしました。

さて、さっそく最初のご質問から取り上げてみたいと思います。
番組を聴いてくださっているリスナーの方には「キッパ」という言葉は耳慣れない言葉かもしれません。おそらく「キッパ」という言葉は知らなくても、何かの映像で見たことはあるのではないかと思います。
エルサレムには「嘆きの壁」と呼ばれる壁があります。紀元70年のローマ軍のエルサレム侵攻のときに、神殿が破壊されてしまったのですが、そのとき神殿の西の壁の一部が残りました。この残った壁が嘆きの壁と言われているそうです。それで、今でもこの嘆きの壁のところには、多くの経験なユダヤ人が集まって、祈りを捧げています。インターネットで「嘆きの壁 ライブカメラ」で検索するとライブカメラで様子を見ることができます。
ちょっと話が脱線してしまいましたが、この嘆きの壁に集まって祈りを捧げているユダヤ人の男性の服装を見ていただきたいのですが、頭に小さな黒いドームのような帽子をかぶっているのが分かると思います。ちょうどカッパのお皿のように見えるかもしれません。この帽子を「キッパ」と呼びます。複数形では「キッポート」と言います。ちなみに嘆きの壁のところでは、ユダヤ人に限らず、観光客にもキッパをかぶるようにと勧められるというような記事をどこかで読んだことがあります。

そこで、ご質問に戻りますが、「キッパ」について三つのご質問がありました。(1)キッパは何のためにかぶるのでしょうか。(2)また聖書のどこかにキッパについての記述はあるのでしょうか。(3)主イエス様は、キッパをかぶられておられたのでしょうか。

まずは2番目の質問から先に答えてしまいたいと思います。そもそも、旧約聖書の中に、男性の被り物についての記述そのものがそんなにたくさんあるわけではありません。まして、帽子という意味でのキッパという言葉そのものが聖書時代のヘブライ語にはないのですから、その着用について聖書的な根拠があるかといえば、そうではありません。
しかし、バビロニアン・タルムードにある安息日に関する記述の中に「天(神)への畏れがあなたにあるように、頭を覆え」(Shabbat 156b)と記されているところから、男子も頭を覆うべきであるという慣例が生まれたようです。また別の記述には「ラビ・ベン・ホナは頭を覆わずして4キュピドの道のりを歩かなかった。なぜなら、頭の上には常に神の存在があるからだ」(Kiddushin 31a )と記されているからです。
つまり、聖書自体にそういう記述があるわけではありませんが、ユダヤ人の伝統の中に、男子も頭を覆うという伝統があったのです。

そこで、キッパについての最初の質問に戻りますが、キッパは何のためにかぶるのでしょうか…これは、バビロニアン・タルムードの記述からも理解できるとおり、神の御名が我々の上に支配しているということへの敬虔な応答と言うことができるでしょう。

では、イエス様がそれをかぶっていらっしゃったかどうか、というキッパについての3番目の質問ですが、これは推測ですが、バビロニアン・タルムードの伝統は、イエス・キリストの時代にはまだなかったのではないかと思います。というのは、少し後の時代にパウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、祈る時に女性は被り物をするのは当然だと記している反面、男性が祈る時に被り物をかぶるのは、頭を侮辱することだと書いているからです(1コリント11:4以下)。もし、キリスト自身が祈る時にキッパをかぶる習慣を実践していたとすれば、パウロの手紙の勧めの言葉も違ったものになると考えられるからです。

さて、もう一つ別の質問を最後に取り上げて終わりにしたいと思います。もう一つの別の質問は、イエス・キリストが何語を話していたのかという問題です。これは5月に取り上げた内容に対するさらなるご質問ということで取り上げさせていただいています。5月の放送では、イエス・キリストがお話になった言葉として考えられるもっとも蓋然性の高いものはアラム語であろうということをお話しました。ただし、聖書の中ではイエス・キリストが何語を話していたという明確な記述があるわけではない、というようなことを述べたと思います。
そこで、S・Sさんからの今回の指摘があったわけですが、では使徒言行録26章14節はどうでしょうか、ということです。そこにははっきりと「ヘブライ語で」イエスはパウロに声をかけたとあります。

そこで、ちょっと解説が必要なのですが、使徒言行録の中にはここを含めて3回「ヘブル語で」という表現が出てきます(21:40、22:2、26:14)。いずれも、厳密にそれが何を意味するのかはやはり不明のままです。つまり、聖書時代から連綿と続く厳密な意味での「ヘブライ語で」という意味なのか、ただ単にギリシャ語に対比して「アラム語で」というくらいの意味なのか、はっきりしないからです。日常会話に聖書時代から続くヘブライ語が使われていたかどうかは、議論の分かれるところです。もちろん、厳密な意味でのヘブライ語であったということを完全には否定できませんが、多くの学者は、この場合の「ヘブル語で」というのを「アラム語で」というのと同じ意味に理解しています。ただ、どちらにしても、それはパウロに対して話し掛けるときにキリストが使った言葉であって、イエス・キリストが普段何語を話していたのかということとは別問題であると言わざるを得ません。