2007年8月15日(水)聖書の中にある神の言葉とは? 兵庫県のM・Yさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのM・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「変な質問で笑われてしまうかも知れませんが、一つおたずねしたいことがあります。
今、そちらのホームページにあるウェストミンスター小教理問答の学びを興味深く読ませていただいています。その問2の答えとして『旧新約聖書にある神の御言葉だけが、わたしたちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です』とあります。しかし、解説を読んでいると『旧新約聖書にある神の御言葉』という表現ではなくて『神の言葉である聖書』という言い方が使われています。
普通、『○○の中にある××』といえば、○○は××を含んでいるわけですから、○○イコール××ではありえません。例えば、『動物というカテゴリーの中にある人間』というのに対して、『人間である動物』と言い換えるのは明らかに変です。むしろ逆で、『動物である人間』というのなら正しい言い換えです。
いったい聖書は神の言葉そのものなのでしょうか、それとも、聖書の中に、言い換えれば聖書のある部分に神の言葉が記されているということなのでしょうか。つまり、ウェストミンスター小教理問答は、聖書の中にある神の言葉そのものの部分とそうでない部分を分けて、神の言葉の部分だけがただ一つの基準であるといっているのでしょうか。
解説を読むかぎりでは、そうではなく、聖書全体が神の言葉であるという理解に立っているようですが、この部分はどう理解したらよいのでしょうか、教えてください。よろしくお願いします」
M・Yさん、お便りありがとうございました。「笑われてしまう」などとおっしゃらないでください。お尋ねくださった質問はとても大切な点を突いていると思います。ぜひ、このことについて真剣にとりあげたいと思いました。
実は「旧新約聖書にある神の御言葉」という部分ですが、ウェストミンスター小教理問答が書かれている英語では「contained」という言葉が使われています。「contain」というのは、「含む」という意味ですから、正確にその部分を翻訳すれば、「旧新約聖書に含まれる神の御言葉」ということですから、ますますM・Yさんは首を傾げたくなってしまうかもしれません。聖書が神の言葉を含んでいるという限りは、聖書は神の言葉そのものそのものであるはずがない、そう思われるかもしれません。
なるほど、台詞という意味では、聖書の中には神が直接話している言葉もあれば、サタンの言葉も出てきます。人間の言葉も出てきますから、それらをふるい分けて神の言葉だけを取り出すことができるかもしれません。
英語の聖書にイエス・キリストの言葉だけを赤いインクで印刷された聖書があります。これなどは、正に聖書に含まれた神の言葉をそれとわかるように区別しているわけです。
しかし、確かにそういう区別はできなくはないでしょけれども、「聖書は神の言葉である」という時には、そういう区別をしているわけではありません。神の話している部分もあれば、サタンが語っている言葉もある。しかも、それらは、すべて人間に理解できる人間の言葉で記されているのです。その全体をさして聖書と呼び、その全体が神の言葉である聖書とふつうは理解されています。
では、なぜウェストミンスター書教理問答は、わざわざ「旧新約聖書にある神の御言葉だけが…ただ一つの基準です」というような言い方をしているのでしょうか。これでは、まるで聖書は神の言葉そのものではなく、その中に含まれる一部分だけが神の言葉であり、その含まれた一部分だけが権威ある基準であると言っている印象を受けてしまうかもしれません。
けれども、ウェストミンスター小教理問答がそんなまどろっこしい表現を使ったのには訳があります。それは宗教改革の中心的な教えがその表現に関係しているのです。
宗教改革のスローガンの一つは「聖書のみ」ということでした。「聖書のみ」というスローガンの背景にあるのは、聖書以外の言い伝えや様々な人間的な教えを排除して、純粋に聖書の教えに立って教会を改革していこうとする決心です。なぜなら聖書だけが神の御言葉であると宗教改革者たちは確信していたからです。
言い換えるならば、問題の発端は、「どこに神の言葉があるのか」という問に発しているのです。少なくとも真面目に神に従おうとする人たちが、最初から人間の教えや言い伝えに耳を傾けようとするはずはありません。信仰をもって生きようとする人であれば、神のおっしゃることに耳を傾け、神の言葉に従おうとするのは当然です。しかし、では、いったい神の言葉をどこで耳にし、目にすることができるのでしょうか。
それが、先ほど紹介した「聖書のみ」というスローガンになったわけです。それまでの教会がここにも神の言葉があると信じて従ってきたことに対して、プロテスタント教会は聖書にだけしか神の言葉はないと考えたのです。
つまり、先ほどから何度も引用したウェストミンスター小教理問答の問2の答えで言っている「旧新約聖書にある神の言葉」というのは、聖書の中にある神の言葉とそうでない部分を区別してそう言っているわけではないのです。そうではなく、ただ一つの基準として従うべき神の言葉はいったいどこにあるのか。教会の伝承の中にあるのか、あるいは教会の会議の決定の中にあるのか、あるとすれば、それも聖書と同じように神の言葉として扱うべきなのか、そういう発想から出てきた言葉なのです。ですから、ここで言われていることの意味は、教会の伝承や人間の決定や教えの中には神の言葉はなく、ただ、聖書の中にだけ聞くべき神の言葉がある、そして、その聖書にある神の言葉だけが、ただ一つの基準であるということのなのです。
したがって、小教理問答を書いた人たちにとっては、聖書はただ単に神の言葉を含んだ書物なのではなく、まさに聖書こそが神の言葉そのものであり、救いと信仰生活にかかわる神からの啓示は聖書の中に十分に示されていると理解していたのです。
小教理問答は簡単に記された初心者向きの教理問答書ですから、あまり細かいことまでは記されていません。しかし、当然のことですが、では、その聖書とはどれとどれですか、という疑問に答えなくてはなりません。それぞれ手にしている聖書の内容が違っていたのでは話になりません。そこで、ウェストミンスター信仰告白の1章2節ではわざわざ、66巻個別に名前を挙げて、この66巻が聖書であり、神の言葉であると記しています。そして、この66巻が神の言葉として信仰と生活の基準であると告白しているのです。