2007年8月1日(水)ルカ福音書について 茨城県 N・Mさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は茨城県にお住まいのN・Mさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「こんにちは。時々、ふくいんのなみキャンプにお世話になりました。N・Mです。スタッフの皆様はお元気ですか?
今回のメールは山下先生に聞きたいことがあり書いております。とある教会の牧師先生に尋ねたところ、ルカによる福音書はある人を説得するために書かれており、例え話の多くは付け加えられたものと聞いたのですが、どうなのでしょうか? またルカによる福音書は他の福音書にはない例え話が多いのはなんでですか?(親切なサマリア人、放蕩息子等) 是非教えてください。それでは返事待ってます。皆様の奉仕に主の祝福がありますように!」

N・Mさん、お久しぶりです。その後お変わりありませんか。メールありがとうございました。
さて、早速ですが、いただいたご質問に順番に答えていきたいと思います。

まず、ルカによる福音書は「ある人を説得するために書かれた」ということについてです。
新約聖書にはN・Mさんも知ってのとおり四つの福音書があります。どうせ同じイエス・キリストの教えと御業を記した書物なのですから、一つあれば十分と思うかも知れません。しかし神様は訳あって四つの福音書をわたしたちの手に残してくださいました。四つの福音書を読み比べてみると、確かに一人の人物のことが書き記されているわけですから、内容はよく似ています。しかし、よくよく読み比べてみると同じ出来事なのに少し見方が違っていたり、細かい表現や描写が違っているのに気がつきます。構成の仕方も場合によっては違います。言い換えれば、四つの福音書があるので全体像がよりよく分かるともいえます。もちろん、それぞれの福音書記者が自分の福音書を書き残したのは、あとで四つの福音書が出揃うことを意識して書いたわけではありません。四つ全部読んで全体が分かるようにと意図して書いたわけではありません。それぞれの福音書記者は、それぞれに目的をもって福音書を書いたわけです。そして、その一冊を読めば、執筆の目的が達成されるように書いたことは言うまでもありません。
さて、その執筆の目的が何であるのか、特にルカ福音書の場合、何のためにこの福音書が書かれたのか。そのことが一番目のご質問と関連しているわけです。いったい何のために書かれたのかということは、もちろん、書物によっては前書きやあとがきで著者自身が語っている場合もあります。しかし、聖書の場合、各書物は必ずしも執筆の目的を明確に記しているとは限りません。
では、ルカによる福音書の場合はどうなのでしょうか。実はルカによる福音書は他の福音書と明らかに違っている点が一つあります。それはルカによる福音書には続きがあるということです。そして、おそらく最初からルカは意図して上下二巻の書物を書こうとしたのだと思われます。
「あれ? ルカによる福音書に下巻なんてあったっけ?」と思われるかもしれません。もちろん、福音書は一冊しか書いていないのですが、「使徒言行録」という続きを書いています。これをルカ福音書の続編と考えるのか、もともと一つのことを書こうとして、二分冊になってしまったのか、意見は分かれるかもしれません。しかし、どっちにしても他の福音書にない特徴は、ルカ福音書は使徒言行録とセットになっているという点です。

ちょっと余談になってしまいますが、最初のルカ福音書が巻物に書かれていたとすると、巻物の長さというの当時は大体決まっていました。つまり、いくらでも長くできるというものではありません。一説によるとルカによる福音書一冊分で丁度一本の巻物に相当します。つまり、ルカ福音書と使徒言行録を一本の巻物にすることはできなかったのです。ということは、もしかしたら、もともとは一つの話としてまとめたかったものが、媒体である巻物の性質上、やむを得ず二巻になってしまったのかもしれません。とすると、ルカによる福音書の目的というよりも、ルカ福音書と使徒言行録の両方あわせて目的を考えなければならないということです。

と、ややこしい話をしてしまいましたが、少なくともルカ福音書には冒頭部分に前書きのようなものが記されています。そこには、こう記されています。

「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」

そうなのです。この書物が書かれたのはテオフィロという人物に事の次第を順序正しく知らせるために書かれたということなのです。
ただし、テオフィロという人物が実在の人物なのかどうか、という疑問を持っている学者たちも中にはいるということを、5月に放送した「テオフィロについての質問」の中で取り上げました。仮にテオフィロが実在の人物だとしても、本当にこのひと一人のためだけに記されたのかどうか、検討してみる必要はあるかもしれません。
ただルカ自身が書き記しているところによれば、少なくとも、テオフィロにキリスト教についての何らかの情報を提供するためにこの書物が書かれたことは確かです。ただし、このテオフィロがノンクリスチャンで、その彼を説得して回心に導くために書かれたのかどうかは確かな証拠があるわけではありません。

さて、残りの質問には簡単に答えて終わりにしたいと思います。

「例え話の多くは付け加えられたものと聞いたのですが、どうなのでしょうか? またルカによる福音書は他の福音書にはない例え話が多いのはなんでですか?」

「付け加えられた」というと、イエスが語りもしなかったのに、ルカが勝手に話を水増しして、追加したととられてしまうかもしれません。事実として、マルコ福音書にない譬え話がルカ福音にいくつかあることは否定できません。問題はそれらの譬え話をルカがどこから持ってきたかということだと思います。
常識的に考えて、3年ほどに及ぶといわれているイエス様の公生涯のすべてを、四つの福音書で漏れなくカバーしているとは思えません。言い換えれば、それぞれの福音書はキリストの教えやみ業を取捨選択して、あれだけのコンパクトなものにまとめたのです。ヨハネ福音書自身も「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(21:25)と記しているとおりです。
ですから、イエス様のなさったことの全体からすれば、ルカ福音書は譬え話を付け加えたのではなく、取捨選択したのです。しかし、マルコ福音書と比べるならば、マルコが載せなかった譬え話を、ルカは他の資料からひっぱってきて付け足したということができるでしょう。もちろん、それはルカの創作ということではありません。