2007年7月11日(水)人は何のために生きているのでしょう? ハンドルネーム 苦しみさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム苦しみさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生。教えてください。人は何のために生きているんでしょうか。生きていても辛いことばかりです。自殺しようとは思いませんが、自分が生きている意味を知りたいです。」

苦しみさん、メールありがとうございました。苦しみさんのハンドルネームが物語っているように、苦しみさんにとっては人生の意味を見失ってしまうほど辛い苦しみ中で、人生の意味や目的について考えていらっしゃるのだと思いました。

さて、人は何のために生きるのか、古今東西、この疑問はいろいろな人が考えてきた問題だと思います。立派な哲学者からどこにでもいる普通の人まで、年齢や性差や民族を問わず、誰もが一度は考えたことがある疑問だと思います。
それだけたくさんの人が考えつづけてきたのですから、さぞかし答えもたくさんあるのでしょう。確かに答えはたくさんあるのだろうと思います。しかし、たくさんあっても、満足の行く答えというものがあまりないのかもしれません。それで、大昔の時代から今に至るまで、人は依然として「生きる目的」について考えつづけているのだと思います。

ところで、人が生きる目的について考える場合とは、いったいどういう場合でしょうか。わたしは古今東西、多くの人たちが「生きる目的」について考えつづけてきたということを言いました。けれども、逆に生きる意味や目的についてほとんど考えないという人がいるのも事実です。
生きる意味や目的について考えないという人は、いったいどういう人たちでしょうか。そちらの方を先に考えた方が答えは簡単かもしれません。
生きる目的や意味について考えない人は、先ず第一に、今の人生を楽しんでいる人たちです。こう言う人たちは生きる目的や意味について考えなくても、毎日楽しく生きているのですから、そういう難しい疑問を抱く機会もなければ、その必要も感じないのです。
もう一つ生きる意味や目的について考えない人の中には、それについて考える余裕のない人もいます。毎日が忙しく過ぎていき、そして、また次の日が瞬く間にやってくるために、忙しすぎて人生の意味や目的などいちいち考えている時間がない人です。
最後に人が生きる意味や目的を考えないという人の中には、意図的に考えない人もいます。つまり、そんな難しいことを考えたからといって、答えが出てくるとは最初から思っていない人たちです。それを知っても知らなくても現に生きているし、また生きていかなければならないのですから、それで十分と考えるわけです。
このどれにも当てはまらない人は、必ずといってよいほど人生の意味や目的について考える人だといえると思います。もちろん、知的な興味から人生の意味や目的を知りたいと願うということもあるでしょう。

さて、苦しみさんが人生の意味や目的について考えるようになったのは、メールの言葉にもありましたように「生きていても辛いことばかり」という経験をされているからだと思いました。もし、辛いという経験がなかったとしたら、人生について考えたり、悩んだりしなかったのではないかと思います。そういう意味ではこの苦しみや辛さの中から生きる意味について考えようとしていらっしゃる苦しみさんは、真っ直ぐな考え方のできる方だと思いました。

ところで、こんなにも長い間人間が問いつづけてきたのに、なぜ答えがなかなか見出せないのでしょうか。そのことについてまず語る必要を感じます。
聖書に拠れば、人間は本来人間がお造りになった通りの人間ではないというところから、この生きる意味についての迷路のような複雑さが生じてきているのです。聖書は人は皆生まれながらに堕落したアダムの罪を背負っていると教えています。そのすることなすこと、心に思うことのすべてに罪の影響が深く及んでいるというのが聖書の教えです。つまり、この罪のままの状態では、その中の誰かがたまたま人生に満足を感じるような生き方ができたとしても、それは罪の歪の上になりたっている幸福なので、とても危うくもろいものなのです。誰かがそのゆがみを正そうとすると、たちまち崩れてしまうのです。ある人にとっての幸福は他の人にとっての不幸といっても良いかもしれません。それでも、幸福になることを追求することをやめようとしないわけですから、この競争に勝った人だけが、人生が意味のあるものと感じる世界になってしまうのです。聖書が説く罪の支配する世界は、人生の意味をいとも簡単に見失わせてしまうのです。この現実に目を留めてばかりいれば、人生は意味のないもの、人生の目的について語ることはまったく空しいことのように感じられてしまうのです。

さて、聖書は「飲むにも食べるにも、何をするにも神の栄光のためにすべきである」(1コリント10:31)と人生の目的について教えています。神の栄光をあらわすというのは抽象的で分かりにくい表現かもしれません。具体的には、神の戒めに従って神の御心のままに生きる生き方です。もっと具体的に言えば、最も大切な戒めに従って生きることです。そのもっとも大切な戒めが教えているのは、神を愛し、人を愛することです。
人が生きるのはもちろん、幸福のためであるかもしれません。しかし、その幸福とは神を愛する幸福、人を愛する幸福を抜きにしては語れないものなのです。この人生はどれだけ神を愛することができたのか、どれだけ人を愛し人に仕えることがでたのか、そのことで計られるべきものなのです。そのように生きるとき、神の栄光のために生きたということができるのです。
結局のところ、このような生き方がなされない時に、なぜ人は生きるのか、人生にどんな意味があるのかが分かりにくくなってしまうのです。

何年か前に韓国では「君は愛されるために生まれた」という歌がヒットしたそうです。この歌は韓国のキリスト教会から生まれた歌ですが、教会内外を問わず多くの人に親しまれました。その歌の歌詞にもあるとおり、人は愛されるために生まれてきたのです。神からの愛を受け、人からの愛を受けるためにこの世に存在しているのです。そのことに反する生き方が、人生の意味と目的を空しくし、逆に、そのことを実現する生き方が、人生を豊かにし、人が生きている目的を実感させるのです。そして、その生き方こそが神の栄光をあらわす生き方なのです。