2007年6月13日(水)理性的霊魂とは? 埼玉県 H・Yさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのH・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、はじめまして。わたしは最近教理に興味を持ち始め、自分で教理問答書を学び始めました。使っているのはウェストミンスター小教理問答書です。そちらのホームページにある教理問答の学びを活用させていただいています。
ところで、このウェストミンスター小教理問答書を読んでいて感じるのは、用語や論理が難しすぎて、ところどころ何を言っているのか分かりにくく、困ってしまうということです。たとえば、問二二の答えの最後の方に『理性的霊魂』という言葉が出てきます。そして、そこに参照する聖書の箇所が出ているのですが、それを読んでますますわけがわかりません。マタイ福音書の26章38節はいったい何を証明しようとして引用されているのでしょうか。解説をよろしくお願いします。」

H・Yさん、お便りありがとうございました。教理の学びをされているということですが、それはとてもよいことだと思います。この番組でも何回か取り上げたことがあるかもしれませんが、なぜ教理の学びが必要なのか、といった質問をよく受けることがあります。神様が与えてくださった信仰の基準は聖書だけなのですから、聖書の学びさえしっかりしていれば、人間の作った教理など必要ないのではないかという考えです。
それに対していくつかの答え方があると思いますが、わたしは最近こんな風に考えることにしています。
例えば子供に本を渡して、読んでくるように言ったとします。一週間たって読んだかどうか、その子供に聞いてみます。「あの本、もう読んだ?」「うん」「じゃ、何が書いてあった?」「え? 何がって? そこに書いてあるとおりだよ」「ほんとに読んだの?」「うん。だから、その本に書いてあるとおりだったよ。」
さて、この会話から、その子供がほんとうにその本を読んだと納得できるでしょうか。確かに、渡された本の字面を追って最初から最後まで読んだには違いありません。しかし、何が書いてあったか自分の言葉でまとめることができるほどには読んでいなかったのです。普通本を読むという場合、何が書いてあったのか、その粗筋を要約したり、著者が言いたいポイントを簡潔にまとめたりできて、初めて読んだといえるのではないでしょうか。
これは、聖書を読むという場合も同じことです。ただ、「聖書を読んだよ」「そこに書いてあるとおりだったよ」と繰り返すだけでは、聖書をほとんど読んでいないのと同じです。
キリスト教の教理というのは、言ってみれば、聖書に何が書かれているのかということを順序だてて要約し、まとめたものなのです。「わたしは聖書をこんな風によみました」という証しなのです。
ですから、もちろん「その読み方は変ですよ」ということがないとは限りません。ただ、教理というのはただ個人が聖書をこんな風に読みましたという証しなのではなくて、歴代にわたって地上に存在した教会が、聖書をこんな風に読んできましたという証しであり、信仰の告白でもあるわけです。教理を無意味だとすることは、教会が聖書を読んできた歴史そのものを否定するということにもなるのだと思います。もちろん、だから教理は絶対的なものではありません。人間が聖書をどう読んでいるかという証しなのです。しかし、この証しがなければ、先ほどの子供との会話のように。教会が聖書を本当に読んでいるのかどうか怪しくなってしまうわけです。

さて、話が横道にそれてしまいましたが、そんな話をしたのには理由があります。というのは教理というのは個人が聖書をどんな風に読んでいるのかという証しではなくて、教会が長年にわたってこれが聖書の正しい読み方だと信じてきたものの積み重ねなのです。それはできるだけ簡潔で、しかし、誤解のないような洗練された用語と書き方で出来上がっています。そうであるために、使われている用語や論理は、キリスト教や哲学的にまったく無縁な人にはピンと来ないというのは避けられないかもしれません。そういう難しさが教理にはあるということはやむをえないことです。それだからこそ、教理には解説が必要だともいえるのだと思います。

ところで、きょうのご質問の箇所というはウェストミンスター小教理問答の問の22です。キリスト教的な用語で言うと、どのようにしてキリストは二性一人格であられるのかという問なのです。二性一人格というのは、その直前の問21にあるように、まことの神であると同時にまことの人であり、しかも二つ人格(ペルソナ)ではなく、一つのペルソナだという教えです。この二性一人格の教理というのは、451年に開かれたカルケドン会議によって正式に決着がついたキリスト論論争の結論です。カトリック教会もプロテスタント教会も、この二性一人格の教えを正統的な聖書の教えとして受け入れているというわけです。
それで、この問22というのは、いったいどうやって神の子であられるお方、つまり神性を持ったお方が、たまことの人間になることができたのか、ということを聖書から教えている箇所なのです。
そこで、H・Yさんのご質問に戻りますが、ウェストミンスター小教理の答えの中には「真実の体と理性的霊魂をおとりになることによってでした」と記されています。「真実の体」という表現は「仮の体」に対応する表現です。それは「キリストは仮の体で現われたのだ」とする来リスト仮現論というものがあったのです。それに対して、正統的な教会の聖書の読み方では「キリストは真実の体をもったまことの人間だ」と言っているわけです。しかし、まことの人間というのは体だけがあってもまことの人間ではありません。キリストは外見は人間で中身は神様だというのではないのです。そのことを言うために「理性的霊魂をおとりになった」といわれているのです。
それで、この「理性的霊魂」という表現ですが、ちょっと耳慣れない言葉だと思います。ウェストミンスター小教理問答が書かれている英語では「a reasonable soul」という言葉が使われています。この言葉は実は「人間の創造」の教理のところにも出てきます。ウェストミンスター信仰告白の4章2節に神は人間を男と女に「理性ある不死の霊魂を持つ」ものとして創造されたとあるのです。つまり、理性的霊魂をもつということが人間である徴なのです。動物にはこの理性的霊魂が無いのです。
キリストがこの「理性的霊魂」を持っているということを聖書のどこで語っているのか、それを示しているのが引用されているマタイ26章38節です。ただし、新共同訳で読んでいらっしゃる方には「魂」という言葉が全然出てこないので余計分かりにくいかも知れません。ただ、今日の聖書の用い方から言うとちょっと首を傾げたくなるような引用の仕方ですが、その引用された箇所ではキリストご自身が「わたしの魂は」とおっしゃっているので、キリストには理性的霊魂があるという論証なのです。
ちょっとまどろっこしい説明でしたがおわかりいただけたでしょうか。