2007年5月9日(水)愛するとは? ハンドルネーム・ミクさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ミクさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつもホームページや番組でキリスト教について学ばせていただきありがとうございます。
聖書を読んでいて、わたしには心に残る言葉がたくさんあります。落ち込んだときに励まされたり、こうありたいと向かう目標が示されたり、ほんとうにたくさんの言葉が心にうちに蓄えられてきました。
しかし、最近になって、聖書の言葉のとおりに生きることは、何て難しいことなんでしょうと思うようになりました。
以前は第一コリント13章に記された愛についての言葉は何よりも大好きな言葉でした。ほんとうに愛の大切さを教えられる言葉だと今でも思います。ところが、ほんとうにこの言葉の通り自分が生活しているかと自分自身を反省してみると、とても自分自身が恥かしくなってきてしまいます。
あんなに大好きだった言葉も、今となっては重苦しい気さえしてきます。
愛することは聖書が教える一番大切な教えであると先生もおっしゃっていたと思いますが、いったい、どうしたらあの言葉の通りになることができるのでしょうか。教えてください。よろしくお願いします」

ミクさん、お便りありがとうございました。聖書の言葉を心に蓄えることはほんとうに素晴らしいことですね。そして、聖書の言葉を心に蓄えるために、どれだけたくさんの時間をミクさんが費やして来られたのか、お便りから十分に察しさせていただきました。

さて、ミクさんがお便りの中でおっしゃっているコリントの信徒への手紙一の13章ですが、ご存知ない方もいらっしゃるかもしれません。この際ですから、番組を聴いていらっしゃる方にもぜひ全文引用してお聞かせしたいと思います。コリントの信徒への手紙一の13章。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

いかがでしたでしょうか。特に4節以下の部分「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」と言う部分に出てくる「愛」という言葉の代わりに自分の名前を入れて読んでみると、とてもは恥ずかしい気持ちになってしまうかもしれません。忍耐することが少なく、寛容さや慈しみを忘れがちな自分の現実の姿をまざまざと思い知らされます。わたしは愛からほど遠い人間だと叫びたくなってしまうかもしれません。きっとお便りをくださったミクさんも、同じ気持ちを抱いて質問を寄せられたのではないかと想像します。

わたしはここに描かれている事柄が、そんなに簡単に身につくとは思っていません。きっと真面目にこの言葉を思い巡らし、真剣に実践してみようと思う人ほど、愛とはほど遠い自分の姿に失望することが多いと思います。
しかし、この手紙を書いたパウロが、ただ、理想を絵に描いた餅のように掲げているだけとも思いません。
そもそもパウロが愛についてこのように書き記したのは、コリントの教会で具体的に起っていた問題を解決するためでした。それはコリントの教会では霊的な賜物についての理解がバラバラであったからです。そのために教会の中では一方の人が他方の人をまるで要らないもののように見下したりしていたのです。そうした問題を解決するために書き送った手紙の中に出てくるのが、先ほどお読みした愛についての教えです。先ほどの部分の直前でパウロはこう書いています。

「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」

つまり、もっと大きな賜物を受けるために最高の道として、パウロは愛についての教えを書き送っているのです。そのようにしてコリントの教会で起っている問題を具体的に解決しようとしているのです。
ですから、実践することが簡単ではない教えですが、決して手の届かない遥か彼方の理想を掲げているわけではないのです。

前置きが長くなってしまいましたが、ミクさんのご質問…「いったい、どうしたらあの言葉の通りになることができるのでしょうか」…このことについて考えてみたいと思います。

まず、当たり前のことですが、ここに書かれていることを覚えてしまうくらい、何度も繰り返し読むということです。心に留まらなければ、どんな教えも実践しようがありません。それは愛の教えに限らず、どんな教えについてもいえることです。

次に大切なことは、聖書が他でも語っている「愛」についての言葉にも目を留めることです。例えば、ヨハネの手紙一の3章1節には「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」と勧められています。同じ手紙の4章10節には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した」とあります。
つまり、コリントの手紙の中で教えられていた愛の勧めの最大の模範は神ご自身の愛にあるということです。
神こそ忍耐強いのです。神こそ情け深いのです。神こそねたまず、自慢せず、高ぶらないお方なのです。
その神の愛はイエス・キリストを通して最も鮮明に現われたとするのが聖書の教えです。ですから、忍耐強く情け深い神とイエス・キリストを通して出会わない限り、愛について本当に学ぶことはできないのです。
愛することの大切さを聖書は教えていますが、それ以上に、神から愛されることの大切さを聖書は説いているのです。愛とは不思議なものです。愛されたことのない人が愛することはできないのです。愛されてこそ愛することを学ぶのです。忍耐強い神の愛と出会い、忍耐強く人を愛することを学ぶのです。自分の利益を求めない神の無償の愛に触れるとき、利己的ではない人の愛し方を学ぶのです。
ですから、何よりも神の愛に触れ、神の愛を学ぶことが大切です。
イエス・キリストはおっしゃいました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)