2007年4月18日(水)二つの主の祈り? ハンドルネーム・アズさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・アズさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「こんにちは。教えていただきたいことがあってメールしました。
聖書の中には主の祈りを記した箇所が二ヶ所ありますが、二つを読み比べてみて、同じ言葉ではないように思いました。どうして完全に同じ言葉はないのでしょうか。
また、聖書に記された主の祈りと、実際に教会で捧げられている主の祈りとも完全に同じ言葉ではありません。その点についても理由を教えてください。よろしくお願いします。」
アズさん、メールありがとうございました。どこの教会でもそうだと思いますが、日曜日の礼拝の中で主の祈りを共に祈ります。プロテスタントのほとんどの教会では、いまだに文語調に翻訳された言葉で祈っています。
「天にまします我らの父よ」から始まって「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり、アーメン」で終わります。そして、冒頭の呼びかけの言葉と結びの言葉に挟まれて、六つの願いから構成されています。
カトリック教会ではプロテスタント教会とは別に日本語に翻訳された主の祈りを持っていますので、また少し違った言葉遣いになっています。もっともそれらの違いは翻訳の違いですから、根本的な違いと言うわけではありません。
少し余談になってしまいますが、この祈りを指して「主の祈り」と呼ぶのは、主イエス・キリストが弟子たちに教えてくださった祈りと言う意味だからです。ご質問の中にありましたように、新約聖書の2箇所にそれが記されています。一つはマタイによる福音書の6章9節以下、もう一箇所はルカによる福音書11章2節以下です。
それで、「主の祈り」という呼び方は、英語でもそのまま「Lord's Prayer」と呼ばれています。しかし、ちょっと古めかしい言い方に「Paternoster」という言い方もあります。Paternosterというのはラテン語から来ている単語で、主の祈りの出だしの部分、「我らの父よ」という言葉のラテン語から来ています。
さて、二つの福音書の中に記された主の祈りの言葉が、まったく同じではないというのはご指摘のとおりです。マタイによる福音書に記されているのは、礼拝の中で祈っている主の祈りとほとんど同じです。というより、礼拝の中で捧げられる主の祈りの言葉は、マタイによる福音書から取られたものです。それに対して、ルカによる福音書が記している主の祈りは、マタイによる福音書と比べて全体的に短い言葉で記されています。例えば、最初の出だしの部分ですが、マタイによる福音書は「天におられるわたしたちの父よ」と記すのに対して、ルカ福音書は単に「父よ」とだけ呼びかけていて「天におられる」と言う部分が抜け落ちています。あるいは、「御心が行なわれますように」と言う部分も、ルカによる福音書からは完全に抜け落ちています。
さらに、ただ短かったり抜け落ちていると言うばかりでなく、言い回しにも微妙な違いがあることは確かです。
例えば、「わたしたちに必要な糧」についての祈りの言葉では、マタイ福音書が「今日与えてください」と祈るのに対して、ルカによる福音書は「毎日与えてください」と祈っています。
では、こうした違いはいったいどうしてあるのでしょうか。
ちょっと考えただけでも違いが出てくる可能性はいくつか考えられます。まず一つの可能性はイエス・キリストが弟子たちに教えた主の祈りは最初からいくつかのパターンがあったというものです。実際、マタイ福音書が記している主の祈りは、山上の説教と呼ばれる箇所に記されています。しかし、ルカによる福音書が記しているのはそれとはまったく別の機会の話です。ですから、イエス・キリストは弟子たちに最初からたったの一回しか主の祈りを教えなかったと考える必要はどこにもないのです。何度でも主の祈りを教えたでしょうし、自由に言葉を選んで教えたことでしょう。その可能性は排除できません。
しかし、何度も教えたとしても、実は同じ言葉でイエス・キリストは教えられたという可能性も考えられます。その場合には聞いた弟子たちが自由な言葉でそれを書きとめたということになると思います。聖書学者たちの間では、ルカによる福音書の方がより本来のかたちを留めていて、マタイによる福音書の主の祈りの言葉は、より礼拝にふさわしく改良されたものだと考えられています。たしかに、両者を比べてみると、マタイによる福音書が記している主の祈りの方が、ずっと整えられた洗練された祈りの言葉であるような印象を受けます。つまり、ルカによる福音書の主の祈りはよりイエス・キリストがお語りになった言葉に近く、マタイによる福音書が記す主の祈りは、後になって実際に教会の礼拝で唱えられる主の祈りに近い言葉であると学者たちは考えているのです。
もちろん、そのことは何もイエス・キリストの後の時代に起ったことと考える必要はないとも言えます。つまり、イエス・キリストご自身が弟子たちと何度も主の祈りの言葉を一緒に唱えている中で、だんだんと洗練され、整えられていったのかもしれません。
また、もう一つ考えられる両者の違いの由来は、翻訳の問題もあります。それは特に「わたしたちに必要な糧」についての部分がそうです。先ほども言いましたようにマタイ福音書では「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」となっています。それに対してルカ福音書では「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」となっています。イエス・キリストがお語りになっていた言葉はアラム語だったと考えられますが、新約聖書が記されているのはギリシア語です。ギリシア語では「与えてください」と言う方に「継続的に与えつづけてください」という言い方と「今与えてください」という言い方があります。日本語でもアラム語でも「与えてください」と言っただけでは「継続的に与えてください」なのか、「今ここですぐに与えてください」なのか区別がつきません。マタイ福音書はそれを「今ここで」の意味にとって「今日与えてください」と翻訳したのです。それに対して、ルカの福音書ではそれを継続的と考えて「毎日お与えください」と翻訳したと考えられるのです。
同じように「罪を赦してください」と言う部分も「罪」なのか「負い目」なのか二つの福音書で違っています。これもアラム語やヘブル語では「負債」や「負い目」が「罪」を表すという文化的な背景があることによります。マタイ福音書は文字通り「負債」は「負債」としてそのままギリシア語に移し変えました。それに対してルカによる福音書では二つあるうちの一つを「罪」と訳し、もう一つを「負債」と訳したのです。
さて、最後にもう一つのご質問に簡単にお答えして終わりたいと思います。実際に礼拝の中で唱えられている主の祈りと聖書の中の主の祈りの言葉が違うと言うことですが、もちろん文語体と口語体の違いというのはさておくとして、最も大きな違いは結びの部分だろうと思います。礼拝の中では「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」という結びの部分をもった主の祈りが捧げられます。しかし、聖書が書き記している主の祈りにはそれがありません。もっと正確に言うと、結びのある写本と結びのない写本があるのです。聖書学者の研究では、本来は結びがなかったと言うのが結論です。しかし、礼拝の中では結びがない祈りはありませんので、ユダヤ教でふつうに唱えられてきた祈りの言葉から結びの言葉が加えられるようになったのではないかと考えられています。