2007年4月4日(水)復活のイエスが食べたのは? 神奈川県 Y・Kさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのY・Kさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、先日聖書を読んでいて気がついた疑問がありますので、忘れないうちにお聞きします。
実は私は英語の勉強も兼ねてキングジェームスバージョンの聖書を読んでいます。それで今ルカによる福音書の24章で復活のイエス・キリストに出会った弟子たちのことを読んでいるのですが、弟子たちがイエス・キリストに差し出した食べ物は焼き魚と蜂の巣であったとキングジェームズバージョンには記されています。ところが、日本語の聖書のどれを読んでも蜂の巣のことは言われていません。これは一体どういうことなのでしょうか。教えてください。よろしくお願いします。」

Y・Kさん、お便りありがとうございました。確かにY・Kさんのおっしゃる通り、キングジェームズバージョンまたの名を欽定訳聖書とも言いますが、それによれば「何か食べるものはないか」と復活キリストから言われて、弟子たちが差し出したものは、「焼いた魚と蜂の巣」でした。
いったいどこから「蜂の巣」が紛れ込んできたのか、あるいはいったいいつから「蜂の巣」が聖書の本文から抜け落ちてしまったのか、そのことにお話したいと思います。

Y・Kさんが読んでいらっしゃるキングジェームズバージョンという翻訳聖書は1611年にイギリス国王ジェームス一世のときに翻訳出版された英語の聖書です。その後250年近く英語聖書の標準として長く読まれて来ました。
ところで、このキングジェームズバージョンの聖書が翻訳されるときに用いられたギリシャ語聖書の底本は、ジャン・カルヴァンの後継者であったテオドール・ベザが校訂したギリシャ語の聖書本文であったといわれています。
因みに、活版印刷技術がヨーロッパで発明されたのは、ご存知の通り、15世紀中ごろ、グーテンベルクの手によると言われています。この印刷技術は聖書の普及にも大きな影響を与えたのですが、ギリシャ語聖書の出版でもっとも良く知られているのは、オランダの人文学者エラスムスのものです。その後、パリの印刷業者であったロベール・エティエンヌと言う人もギリシャ語の聖書を出版します。この人は今日の聖書に章と節を振った人としても有名な人です。そして、先ほどキングジェームズバージョンの底本となったベザのギリシャ語聖書が出版されました。
ところで、こうして出版されたギリシャ語聖書は後に「公認本文」と呼ばれるギリシャ語出版聖書に集約されて、いつしか新約聖書の正しい本文と信じられるようになったのです。ところが実際には、そうして版を重ねていった公認本文はあまり質の良くない写本をもとにしていたために、それに基づいて翻訳された各国の聖書も聖書の本来のテキストとは違う部分も生じてしまったのです。
しかし、16世紀以降、近代的な聖書本文学が発達するまでの間、長い期間にわたって使われつづけてしまったために、正しい底本を確定する作業はそう簡単には実現しなかったのです。

確かに、新約本門学の研究成果によってほぼ99.9%、元のテキストに復元できたと言われるほどの精度の高いギリシャ語新約聖書の校定本を手にしている現代の私たちから見れば、「公認本文」のギリシャ語聖書は質の悪いものであったという評価です。ただ、その本文に基づいて翻訳された聖書によって多くの人たちが神のみ言葉に触れ、信仰を強められていったと言うことも見逃してはなりません。

さて、聖書本文を確定する学問を聖書本文学と呼んでいます。聖書本文学には旧約聖書本文学と新約聖書本文学があります。どちらも、よりオリジナルな本文を復元することがその学問の目的です。オリジナルな本文を復元するためには、たくさんの写本とたくさんの古代語訳聖書とたくさんの引用された聖書の語句を突き合わせていかなければならないと言う、大変気の遠くなる話です。
もちろん、年代的に古い写本がよりオリジナルの本文を伝えていると考えられるわけですが、しかし、本文の確定は写本の年代の古さばかりが決め手ではありません。間違った本文が出回るプロセスも推理する必要があります。写本を書き写す人は、うっかりミスで単語や文章を書き損じてしまうこともあるでしょう。しかし、親切心から自分の解釈やわかりやすい言い回しにしようとしてテキストを改ざんしてしまうこともあるのです。さらにまた、書き写すと言っても、場合によっては手本の聖書を見ながら書き写すのではなく、誰かが朗読するのを耳で聞きながら書き写すと言う方法も取られました。そうすることで、一冊の聖書を同時に大勢の人が書き写すことができます。しかし、聴き間違いによって生じる写本のミスも生じるのです。
こうして、世にたくさん出回った写本をたどりながら気が遠くなる作業を地道に繰り返して、もともとの本文へと返っていく作業を聖書本文学は成し遂げるわけです。
こんな話を耳にすると、聖書への信頼性が揺らいでしまうのではないかと心配するかもしれません。しかし、現存する古代の文書の中で聖書の写本ほどほたくさんあるものはありません。言い換えれば、他の古代の文書はそれが原本に近いのか、とんでもなく遠いのか、写本の数が少なすぎて比べようもないのです。ちょっと逆説的ですが、間違った写本が数多く存在するお陰で、正しいものを復元する手がかりが、たくさんあるということなのです。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、Y・Kさんがおやっと思ったルカによる福音書24章42節には2通りの写本が知られています。一つは「蜂の巣」と言う言葉を含むもので、もう一つはそれがないものです。
新共同訳聖書が翻訳の底本に使っているギリシャ語校訂本、聖書協会世界連盟が出版したギリシャ語新約聖書修正第3版は、「蜂の巣」という言葉がない読み方を本文に採用しました。「蜂の巣」を含まない写本は、ルカ福音書の現存する最も古いパピルス写本やシナイ写本やヴァチカン写本など優秀な写本に記されている本文です。そうした写本の質の問題から考えても、もともとの本文に「蜂の巣」という言葉がなかったのではないかと思われます。
もちろん、写本は古ければ正しいとは限りません。しかし、本文確定のもう一つの原則も「蜂の巣」がない本文を正しいと支持しているように思われます。それは本文学の原則ではより短いものの方が元のテキストであるという原則です。もちろん、書き損じによって元のものよりも短くなる可能性がないとは言えません。しかし、一般的には何か意図的に書き足すことによって長くなる方が多いのです。
以上のようなことを総合的に判断して、出した結論が今の新共同訳聖書の底本として使われてる聖書協会世界連盟が出版したギリシャ語新約聖書修正第3版の立場なのです。ちなみにギリシャ語新約聖書のテキストとしてもう一つ良く知られているネストレ27版も同じ結論です。