2007年2月7日(水)希望について 新潟県 ハンドルネーム・ともさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は新潟県にお住まいのハンドルネームともさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、BOX190の番組を楽しみに聴かせていただいています。早速質問したいことがあるのですが、それは『希望』ということについてです。希望に溢れる人生を歩みたいと願うのは誰でも同じだと思います。たとえ、現実が悲惨であったとしても、希望が持てれば前に進むことができます。また、現実が悲惨であっても希望があるときには、目の輝きが違います。時々、第3世界の子供たちの様子を映像で見ることがあるのですが、彼らの現実の生活とは裏腹に、子供たちは活き活きとしています。将来何になりたいかというインタビューにも、学校の先生になりたいとか、お医者さんになりたいとか、目を輝かせて答えています。
それに引き換え、最近の日本を見ていて、なんと希望のない国なのだろうと思うことがしばしばです。ちょっと前には自殺者が年間で3万人を超えるということが話題になりました。しかも、それは中高年の男性自殺者が増えているということだったように記憶しています。言わば働き盛りの世代の自殺者ということです。本来なら、仕事に最も充実して、生き甲斐のある人生を送っている年代であるはずです。
また、最近ではいじめの問題がふたたび表面化してきて、自殺が連鎖のように相次いでいます。本来なら将来の希望に燃えて、可能性のある未来を胸に描きながら生きている年頃のはずです。
こんな現実を見ていると、日本の国に希望ある将来はあるのだろうかと不安になってしまいます。
山下先生、いったい希望というのは何なのでしょうか。私たちは希望をもつことが果たしてできるのでしょうか。教えてください」
ともさん、お便りありがとうございました。確かにここ数年間の社会情勢を見ていると、人間として悲しくなる出来事が増えているような気がします。いったいどこに希望というものがあるのだろうかとさえ思えてしまいます。ちょっと前の時代なら、いい大学に入って、いい会社に就職すれば、希望のもてる暮らしが約束されていました。しかし、今はそれすら怪しくなってきています。また、ちょっと前の時代なら、一つの会社に長く務めれば、能力にあまり関係なく給料も人並みに上がっていきました。しかし、今は能力主義ということで、長く勤めたからといって何も保証されるものはありません。そういう意味では具体的に実感できるような希望というのは描きにくい時代なのかもしれません。
そのことと関係あるのかどうかは分かりませんが、ちょっと前の時代と比べて、国民の経済的な格差が広がっているようにも思います。ちょっと前の時代には、日本人はみな自分が中流の暮らしをしていると思っていました。スーパーリッチの大金持ちがいるわけではなく、また、スーパー貧乏の人がいるわけでもない、みんながある程度の幸福を手に入れているという満足感があったはずです。大抵の家にはテレビや冷蔵庫があって、自家用車もそれほど高嶺の花ではないと感じていました。ところがここ何年かの間に、一方ではまだ若い人が巨万の富を動かして企業の買収にまで手を出すというニュースを日常茶飯事のように聞かされ、他方では、ちょっと町を歩けばホームレスの人たちに出会うといった状況です。
もっとも、貧富の差はアメリカでもよくみかける光景ですから、日本だけが特別に貧富の格差が広がっているというわけではないでしょう。ただ、そんなことをほとんど体験してこなかった戦後生まれの私たちにとっては、どこに希望や安心があるのかという不安な気持ちになっているというのは、ともさん一人のことではないと思います。
単純に物事を関連付けてはいけないとは思うのですが、こうした未体験の事態に、どう対処したらよいのか皆が困り果て、ストレスを感じているのではないかと思います。
さて、ともさんのご質問は、希望とはなんなのだろうかという疑問に始まり、果たして私たちは希望を持つことができるのだろうかという質問でした。
希望を持つことができるのかということを問うには、当然、希望とは何かということが問題になります。
一般的に「希望」というときにはいくつかの用法があるように思います。たとえば「何か希望はありますか?」という場合の「希望」は、こうあって欲しいというリクエストや願いのことです。その程度の希望なら描けないということはないでしょう。しかし、「希望に燃えて」とか「希望に溢れて」という場合の「希望」というのはもう少し夢のある、大きな希望です。おそらく、希望が持てるのかどうか不安だとおっしゃるともさんがいう「希望」とはこの種のものだと思います。「希望に溢れて」とか「希望に燃えて」と言う意味での希望は、今でも抱く人は抱いていると思います。特に特別な才能を持った人にはいつも希望があります。では、特別な才能を持たない人には希望がないのかというとそうではありません。少なくともちょっと前の時代には、誰でも真面目に働きさえすれば、人並みに幸せに暮せるという希望がありました。ただ、ここ何年かの間にそういう希望がずっと薄れていったことは否めません。そこで、経済的な暮らしに希望を見出そうとするのではなく、社会奉仕の中に希望を見出そうとする人々が増え始めたのもこの何年かの現象のように思います。様々なNPOの活動が盛んになりました。そして、その活動を担う人々は希望に燃え、希望に溢れています。
そして、こうした変化にどう対処していったらよいのか自分の道を見出せない人にとっては、中々希望の持てない社会だと言うことは認めざるを得ません。
ところで、「希望」という言葉が「政治」や「経済」と結びついているという現実は否定することができません。政治家や知識人がこぞって取り組んでいるのは政治的な明るい見通しであったり、経済的な明るい見通しです。そうした希望を軽視するつもりは、毛頭ありません。それは成果を収める時もありますし、失敗するときもあります。
しかし、それとは別の次元の「希望」についても知っておく必要があるのです。あえて「別の次元」という言葉を使わせていただきました。聖書は政治や経済を否定したりはしません。それぞれがもたらす希望も正当に評価すべきです。しかし、政治や経済がもたらす希望ではない希望を聖書が指し示しているということを知る必要があるのです。
聖書が語っている希望は、この世界にかかわる希望です。神がお造りになり、人間がその罪によって破壊してしまった世界にかかわる希望です。罪が支配する世界にはそもそも希望というものはありません。この破壊された世界をいかに回復するかということが、聖書が説く「救い」の問題です。そして、その救いにこそ希望があるというのが聖書の教えなのです。
先ほど、政治や経済がもたらす希望というものを聖書は否定しないと言いました。しかし、それだけに依存してしまうと、政治や経済の希望が見えにくくなった時に、希望のすべてを失ってしまう危険があるということなのです。
私は日本の政治や経済が特に悪いとは思っていません。むしろ問題があるとすれば、希望というものをそこにだけ見出そうとする一人一人の心構えにあるのだということです。
宗教的な希望、もっと言えばキリスト教的な希望をもたないならば、いつも経済や政治の波に翻弄されてしまうということなのです。