2007年1月31日(水)お焼香について 群馬県 匿名希望
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は群馬県にお住まいの匿名希望の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生。いつも番組を楽しみに聞いています。
さて、きょう質問したいのは仏教の葬儀に参列する時、クリスチャンとしてどんな態度で臨んだらよいのかということです。
いろいろな機会に聞くのですが、クリスチャンはお焼香をしないということですが、遺族の方たちの気持ちを逆なでしてまでお焼香をしないというのは、ちょっとおかしな気がします。山下先生はクリスチャンの行動原理は「隣人愛」だということをよくおっしゃっていますが、相手の気持ちになって考えれば、お焼香しないというのは、隣人愛に反することになるのではないでしょうか。
しかし、だからといって、相手の宗教に全面的に合わせて行動を取るとなると、それもまたおかしいとは感じます。もちろん、合わせるといっても心の内側まであわせてしまうというのではなく、形だけ合わせて相手の気持ちを満足させればそれでよいのではないかと思うのです。
お焼香をしたからといって、心の中のキリスト教信仰が侵害されたり失われたりするわけではないのですから、つまらないところで意地を張るのもどういうものでしょうか。
先生のご意見をお聞かせください。よろしくお願いします」
お便りありがとうございました。日本に限らず、どこの国へ行っても宗教と深い関係があるお葬式の問題は、唯一の神のみを信じる宗教の人にとっては宗教的な良心の問題がそこに絡んでくるのではないかと思います。お便りの中にありましたように、特に日本ではお葬式は仏式で執り行われることが多く、お焼香は参列者のほぼ全員が具体的な所作を求められる宗教的な儀式です。
このお焼香の問題に関しては、以前にも取上げたことがありますので、そのときの結論をもう一度ここで繰り返させていただきます。
そのときお話したことは、まず第一にキリスト教的な葬儀の目的をしっかりと自覚するということです。つまり遺体を丁重に葬ることと遺族を慰めるという目的のために葬儀に参列すると言うことでした。そういう意味では、宗教が異なる人の葬儀であっても、この目的のために葬儀に参列することは意義のあることです。もちろん、キリスト教的な葬儀の目的を著しく逸脱させられたり、自分の宗教的な良心を守ることができないような葬儀であれば、それに参列しないということも、残念ながら選択肢の一つとして考えておくべきかもしれません。しかし、それはよほどのケースでしょうから、原則としてはどんな葬儀にも、遺体を丁重に葬ることと遺族を慰めるという目的のために参列するのが望ましいと思います。
そして、第二に、クリスチャンとしての信仰を疑わせるような行ないを他の人たちの前で行なわないという配慮をもって臨むと言うことです。これは特にお焼香と関係する問題です。
確かにお便りの中にありましたように、形だけの行動によって、自分の内面までも侵害されるわけではないというのは一理あるかもしれません。仏教式の葬儀に参列したからといって、仏教に帰依したとは直ちにいえないでしょう。キリスト教の葬儀に参列した人が全員キリスト教に回心したことにはならないのと同じです。
しかし、そうであったとしても、ある具体的な宗教的な所作を取ることで、それを見た人に誤解を与えたり、躓きとなったりする行動は避けるべきだということなのです。たとえ、自分の内面に何の変化ももたらさないとしても、それを見た人に大きな誤解と影響を与えることはすべきではないのです。
これは丁度偶像に献げられた肉を食べても良いかという、コリントの教会の問題に似ているかもしれません。パウロはその問題にこう答えています。
「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」
つまり、自分一人の問題なら、他の宗教が持っているどんな意味付けも無視して自由に宗教的な行事に参加できるかもしれません。けれども、その行動を見て誤解して躓いてしまう人のために、そういう自由な態度は避けるべきだとパウロは勧めているのです。
さて、以前この問題を番組で取り上げたときは、以上の二点を述べたのですが、今回はご質問の中にあったクリスチャンの行動原理としての隣人愛についても触れておきたいと思います。
ご質問の中にこうありました。
「山下先生はクリスチャンの行動原理は『隣人愛』だということをよくおっしゃっていますが、相手の気持ちになって考えれば、お焼香しないというのは、隣人愛に反することになるのではないでしょうか。」
確かに相手を不快にさせたり悲しませたりすることは隣人愛に反する行いであると一般的にはいうことができるでしょう。そのような行動はクリスチャンとして避けるべきです。しかし、相手を満足させることが真の意味での隣人愛かどうかは吟味する必要があるはずです。特にクリスチャンの行動原理は「隣人愛」だけではなく、「神を愛すること」も同時に行動原理に含まれています。神の御心に反してまで隣人を満足させなければならないというのは論外であるように思います。
隣人愛を持ち出してお焼香をすべきであるとする議論は、ある意味、詭弁であるように思います。ただ単にゴタゴタに巻き込まれてお互い嫌な気分になるのを避けたいという気持ちならばわからないでもありません。しかし、考えても見れば、葬儀に参列するような関係にある方とは、葬儀のその日になって隣人愛を持ち出すような相手ではないはずです。日ごろから親密なお付き合いのある方であるはずです。その日になっていきなり隣人愛を持ち出してその場を取り繕おうとするのは、かえって日ごろいかに疎遠であるかということを暗示しているようにも感じられます。隣人愛といいながら、結局はその場の隣人愛でしかないように思うのです。
もし本当に隣人愛を持ち出すのであれば、葬儀が終わった後にこそ、隣人愛をもって残された方々と接する機会はいくらでもあるはずです。
最後にもう一つだけ付け加えるとすれば、お焼香をしないということが、まことのクリスチャンのしるしであるような考えを持つべきではありません。それもまた形式主義に陥ってしまう危険な要素だからです。